ほぼ日 | 『音楽堂』のトレーラーを 拝見させていただきました。 これは、いずれ映像作品として、 たとえば映画になるとか、 そういうものでは‥‥。 |
篠崎 | ないんです、全然。 |
ほぼ日 | 1992年に、最初のピアノ弾き語りアルバム 『SUPER FOLK SONG』が出たとき、 その録音工程を記録したドキュメンタリー 『ピアノが愛した女。』という 映像作品がありましたよね。 あれと、同じ方が撮っていらっしゃるのかな、 と思ったので。 |
篠崎 | 『ピアノが愛した女。』の監督は 坂西伊作さんという映像作家のかたですが、 じつは昨年、亡くなられたんです。 |
ほぼ日 | そうなんですか‥‥ とても近い感じがしたものですから、 同じ方かな、また映画になるのかな、 なんて思ったんです。 ただ、『ピアノが愛した女。』には 観始めるとこちらが正座しちゃうような、 とても厳しい矢野さんの姿があって。 |
篠崎 | ええ、そうですよね。 |
ほぼ日 | あの時の厳しさと、 今の矢野さんの厳しさ、 違いますよね。 |
篠崎 | そうですね、全然違います。 |
ほぼ日 | そんな話を今日聞かせていただきたくて。 どうぞよろしくお願いします。 矢野さんは、「こういうのを作りたい」 というのがまずあって、 アルバム制作が始まる方なんですか。 |
篠崎 | はい、矢野さんは、 とてもとても、そういう方です。 人との出会いから音楽が生まれていくという プロセスが多いですね。 そこから作品のイマジネーションを得ていく。 例えばレイ・ハラカミさんと一緒に 音を作ったらとっても盛り上がって、 yanokamiというユニットが出来上がったりとか。 それから、この弾き語りがそうですが、 自分のライフワークのように、 何年に1回という形でやっているものがあります。 そして、その、弾き語りを、 一発録りでレコーディングして アルバムにまとめるという仕事は、 吉野金次さんという大きなパートナーと 一緒にやっていくものとしてあるわけなんです。 |
ほぼ日 | この弾き語りの録音というのは、 吉野金次さんとの関わりが とても大きいということですね。 |
篠崎 | そうなんです。 私、本当にそれに関しては 最初、よくわかっていなかったんです。 もちろん、吉野さんと一緒に 作られてきたものだということは 知っていたんですけども、 その結びつきの強さというのかな、 それに関してはわかっていなかった。 |
ほぼ日 | 吉野金次さんと矢野さんがつくった ピアノ弾き語りのアルバムは、 『音楽堂』以前に 3枚あるんですよね。 |
篠崎 | そうです、そして4枚目が『音楽堂』です。 |
ほぼ日 | あの──吉野金次さんというのは、 どんな方だと言ったらいいんでしょう。 70年代以降の日本の音楽シーンには よく、登場するお名前です。 Googleで吉野金次さんのお名前を入れると、 細野晴臣さんが2006年に書かれた 「ミキサー:吉野金次さんのこと」 という文章が出てきます。 はっぴいえんどの『風街ろまん』は、 吉野さんなくては完成できなかった 大事なアルバムであると。 |
篠崎 | そうですね。 吉野さんは東芝のハウスエンジニアを 出発点として、早くにフリーランスの エンジニアプロデューサーになった方です。 日本にはそんなお仕事の方は、 右を向いても左を向いてもいなかった時代に、 そういう立場に自然となられちゃった、 希有な方で、 はっぴいえんどとか、友部正人さんとか、 さまざまなアーティストの 出発点に関わられていますね。 細野さんのことでいいますと、 『風街ろまん』に、「風をあつめて」という 細野さんの代表曲があるんですけれども、 細野さんはレコーディングの当日になっても 曲が未完成だったんだそうです。 それをスタジオで録音しながら、 吉野さんが一緒になって作っていってくれた。 スタジオの向こう側にいるエンジニアじゃなく、 吉野さんは、ブースから出てきて ミュージシャンと同じところで やってくれるエンジニアで、 彼がいなければあのアルバムは できなかったとおっしゃってて。 ものすごく忍耐強くて、 とても、音楽的なエンジニアなんですよ。 |
ほぼ日 | 音楽的なエンジニア。 |
篠崎 | 電気的なことだけでなく、 はるかに音楽的な才能があるのでしょう。 そんなふうに、 ソフト部分(音楽)に関してすごいという人は、 とくにあの時代には、 ほとんどいなかったんじゃないかな。 『音楽堂』以前に、 矢野さんと吉野さんと私でやらさせていただいた 最後の仕事は 『はじめてのやのあきこ』だったんですけれども、 そのアルバムは矢野さんのデビュー30周年記念で ピアノの弾き語りでいろんな方と一緒に デュエットをするという企画でした。 YUKIさん、忌野清志郎さん、 井上陽水さん、小田和正さん、槇原敬之さん、 そしてピアノの上原ひろみさん。 そういう企画の中で吉野さんが 一緒にレコーディングをしてくださったんです。 それから──彼が倒れてしまいます。 2006年のことでした。 脳溢血でした。 |
ほぼ日 | はい。 関係者のみなさん、とても衝撃を受けられていて、 音楽業界に、再起不能じゃないかっていう噂が 流れたと聞きます。 |
篠崎 | はい、そうですね。 本当にそう思いました。 |
ほぼ日 | 倒れたのが春でしたよね。 夏には、矢野さんと細野晴臣さんが音頭をとって 吉野さんの力になろうと、 「音楽のちから」という チャリティコンサートを開いていますね。 この時──吉野さんは闘病中ですよね。 |
篠崎 | そうです。入院中で、 まだはっきり何をおっしゃっているかも わからないような状態でした。 やがて、長い入院、転院を経て リハビリ病院から退院され、 お家に戻られた吉野さんは、 まだ車椅子に乗ってという状況のなかで、 2階でお嬢さんがかけた 『はじめてのやのあきこ』を あらためて、聴かれたんです。 そのとき、 「ああ、こんどは、 もうちょっと低音をしっかりと 響かせるようなものにしたいな」 というふうに思ったんですって。 |
ほぼ日 | へえ‥‥! 「こんどは」! |
篠崎 | 今までやってきたものの音というのは 彼にとってすごく一個一個変遷があり、 次の矢野さんの音はこうしたい、 という、新たな音のイメージを もうその時に持っていらしたんです。 |