ほぼ日 | 病院からご自宅に戻られたとき、 すでに吉野さんは 矢野さんと仕事をする気 満々だったんですね。 |
篠崎 | その理由は──もう倒れた瞬間から そうだったんですけれども、 矢野さんが「それは困った!」って。 その「困った」がすごかったんです。 私、本当に最初は 2人の結びつきの強さをわかってなかったので、 倒れたんだったら、 しかたがないけれどほかのエンジニアで、 という考えでいたんです。 |
ほぼ日 | 「アルバムを出す」ことを優先すると そうなりますよね。 |
篠崎 | じつは、2005年の末から 吉野さんが倒れた2006年の春にかけて、 その年の10月のレコーディングをめざして NYの矢野さんの パンプキンスタジオに行っていただく セッティングをしていました。 吉野さんにもOKいただいて、 いつの時期にどういうふうにというふうに、 細かく打ち合わせを始めようとしてた時期だった。 そこで倒れちゃった。 |
ほぼ日 | それは困った。 |
篠崎 | 私は当時、延期はありえないと思ってたので、 「じゃあ、2006年の10月のレコーディングは 誰でやりましょうか」っていうふうに すぐ歩を進めちゃったんです。 吉野さんには申し訳ないけれどって。 そうしたら、矢野さん、 「わかってないね、あんたは」。 「‥‥は?」ってなって(笑)。 「吉野さんがいなければできないのよ、これは」 そう言われた時に、 じゃ一生できないんだって、思ったんです。 吉野さんが完全に復帰するなんて そのときは夢のようなことでしたから。 もう矢野さん一生、 弾き語りのアルバムは出さないのかなあって、 ボーっとなりました。 でも、それを矢野さんは、 「蘇らせるから」って。 そこからものすごい運動が始まって、 それの一環がチャリティコンサート 「音楽のちから」であり、 毎年毎年、春夏冬と来日するたびに、 ある時は山梨の温泉病院、 ある時はリハビリ病院、 ある時は自宅ということで、 忙しいさなかでも、必ずお見舞いに行って、 「仕事一緒にやろうね! やろうね!」 って言い続けてきたんです。 |
ほぼ日 | すごい‥‥。 |
篠崎 | それでもう病人やってられなくなったんです、 吉野さんが。 |
ほぼ日 | ほんとにすごい‥‥。 |
篠崎 | すーごいですよ。 矢野さんの気迫ったら。 |
ほぼ日 | すごいなあ‥‥。 やっぱり吉野さんがいないと できないことなんですね。 |
篠崎 | 矢野さんは本当に音楽とピアノと戯れるみたいに 音楽の中に埋没していくじゃないですか。 もちろん今自分が弾いてるところの世界を 冷静に、聴きながらですけれども、 それが客観的にどう聴こえてるか、 っていうところまでを、 (レコーディングにおいて) ちょっとでも心配すると、 多分、集中が欠くのかなと思うんです。 そこの全体を吉野さんが丸のまま パッケージにきちっとしてくれる、 空気ごと全部吉野さんが 風呂敷包みみたいにして、 「はい」って一人一人に渡せる作品に してくれるという信頼感があるから、 あれだけ集中できるんですね。 吉野さんという人は、 矢野さんがまったく心配せずに、 自由にやれるという 象徴の人なんだと思うんです。 そこにはもう誰も介在できないし、 割り込めないんだなって感じでしたね。 その感じというのも、今回の 『音楽堂』のプロセスを経て、 ああ、そういうことなんだって。 ──じつは、『音楽堂』の前に、 2008年、吉野さんに録っていただいたものが、 あるんですよ。 |
ほぼ日 | えっ! |
篠崎 | 『JAPANESE GIRL』というアルバムがありますよね。 吉野さんがミックスを手がけた。 |
ほぼ日 | 矢野さんのデビューアルバム。 1976年の作品ですよね。 |
篠崎 | そのアルバムを、全曲、いまの矢野さんが 弾き語りをするというコンサートを 2008年3月に すみだトリフォニーホールで行なっているんです。 それを吉野さんに録ってもらったんです。 |
ほぼ日 | えっ? 外出もままならなかった時期じゃ。 |
篠崎 | もちろん吉野さんはまだ 在宅療養なさっていた時期です。 それを矢野さんが「録ってもらいたい」と。 吉野さんはまだ全然動けなくて、 右手しか──最初から右手は平気だったんですが、 右手だけで、やってくださった。 |
ほぼ日 | どのようにして? |
篠崎 | サウンドチェックの時に 私が音をモニターアウトで録って、 データをメールに添付して送って、 吉野さんがお家でチェックするんです。 マイクの写真を撮って送り、 その位置を直してもらい、 近藤さんというPAエンジニアの方に 協力していただきながら、録音したんです。 |
ほぼ日 | 録音を遠隔操作! |
篠崎 | で、録音してみて、 それをご自宅で、 ミックスしていただきました。 できるかどうかもわからない時だったので こちらも賭けだったんですけども。 |
ほぼ日 | 自宅に機材を。 |
篠崎 | セッティングして。 |
ほぼ日 | 耳は、大丈夫だったんですね。 |
篠崎 | 耳は平気だったんです。 左半身が麻痺なさっていたのですけれど、 耳は、大丈夫でした。 |
ほぼ日 | あっ、それがiTunesで配信された音源ですか? |
篠崎 | そうです。 その時に矢野さんは、 吉野さんは大丈夫、という実感を得た。 |
ほぼ日 | 「できる」と。 それが今年の『音楽堂』につながるんですね。 |
(つづきます)
2010-02-05-FRI