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第9回
学歴社会はどこへ。実力がすべて。



「現在は学歴社会なのか?」という問いに答えられる人は
何人いるだろうか。未曾有宇のrecessionに見舞われ、
戦後築かれてきた数々の価値観が音を立てて崩れ去る中、
学歴社会は確かに崩壊しつつある。

かつては、確かに「学歴社会」であった。
東大を出れば一生安泰だと言われた時代があった。
企業は高度成長期を通じて、
成長のために大量に人材を雇用してきた。
その際、competitionに勝つために
より質の良い人材を選別することが、
勝敗・明暗を分けてきたのは確かなことである。

より良い人材を獲得するためにはどうすればよいか。
この答えが「学歴」重視の雇用だったわけである。
大量に雇用するすべての人材の本質的な能力を、
短期間のうちに見極めることは至難の技、
いや不可能といってよい。
そこで企業はどうしたか。
より「確率の高い」
セグメントの抽出に勤しんだわけである。
その答えが「高学歴」セグメントだったということ。

みなさんは、「高学歴」の人間というのを
どうとらえてられるだろうか。
アメリカを例にとってみよう。
アメリカは、明らかに日本以上の学歴社会である。
いや、区別社会といってもよい
(決して差別ではない。区別と差別は違う)。

ハーバード大出身というだけで箔が付く。
東大出なんかよりずっと上だ。
ではそれは何故か。
それは、本当に「優秀」な人材がいるからである
(ただし最近はそうとも言えなくなってきているようだが)。
もっと言うと、「優秀」でないと
卒業できないからと言ってもよい。
「日本の大学は入りにくくて出やすく、
 アメリカの大学は入りやすくて出にくい」
ということがよく言われるが、これは嘘で、
アメリカの高学歴大学は、
「入りにくく、出にくい」である。

翻って、日本の高学歴者はどうか。
汚職をくり返す官僚たち、
背任罪に問われる一流企業幹部。
皆、基本的に高学歴だ。
イメージはどうか……最悪である。
「頭はいいかもしれないが、人間としてなっていない」、
「受験勉強が彼らをスポイルした」、
などという声が聞こえてくる。
確かにそうかもしれない。

しかし、これにはちょっとしたカラクリがある。
日本の受験勉強は劣悪なものなのか。
これはそうとも限らない。
人間同士が競争することは良いことか悪いことか、
という根元的な問題になるのでは、と思う。
夏の駿台模試でトップ100に入ろうと、夏休み早朝から
勉強している受験生と、夏の甲子園に出ようとして
早朝からランニングしている
高校球児がそんなに違うものか。
これが違うのだ、というのならそれこそ「差別」である。

なぜ、東大出身者が大企業の人材ターゲットになるのかを
冷静に考えてみると見えてくるものがある。
彼らは熾烈な受験戦争を耐え抜いてきたのだ。
皆が遊んでいるときに我慢に我慢を重ね、
一つの目標に向けて頑張ってきたのである。
はっきり言って「タフ」ガイだ。
並の苦境なら何ごともなく耐えることができ、
物事を達成できる
(ここで再び断っておくが、全員がそうであると
言っている訳ではない。
確率が高いということだけである)。

こんな人材なら企業にとっては
喉から手が出るほど欲しいに違いない。
一般に、学歴が高い人は「頭がいい」から優秀だ、
と思われているフシがあるが、
企業が高学歴人材を欲しいという
本質は少し違うということだ。

ただし、ここで注意しなくてならないが、
上記のような「価値」がある人材は、本当の戦争に
勝ち抜いた……要は油断する奴は簡単には入れない、
東大、京大、早稲田、慶応の一部の学部に限られる。
もともと頭が良い奴なら努力しなくても入れる範囲の大学は
この限りではないということだ。
つまりどんなに頭が良い奴でも、血のにじむような努力を
要するところでないと駄目だということ。

では、なぜ日本の学歴社会が批判され、
高学歴者は人間としてはダメだと思われるのか。
これにははたまた訳がある。
高学歴者が大企業に求められる理由は
既に述べてきたとおり。
高学歴者が大企業に入社するまでは「問題ない」のである。
ところがこの後問題が生じる。
世の中の人が「高学歴者」を認知するのは、
その人が大企業や官庁で
それなりの地位になってからのことである。

この人たちが良くない。
「高学歴」でかつ大企業で「偉く」なったのだから、
これは「超高学歴」に違いないと、みなは思う。
しかし、だ。企業組織に入ったときから、
それまで培ってきた「学歴」が、
不連続なものとなってしまう。

ここで再び欧米と比べてみたい。
欧米、特にアメリカがそうであるが、
組織の上に立つ人のクライテリアが明らかに日本と異なる。
これは色々な組織にあてはまる。企業でも学校でもそう。
例えば、大学組織で考えてみると、
アメリカの大学では一般に、
助教授までは学問的なパフォーマンス
(論文の数など)次第ではすんなりとなれる。
しかし、教授(プロフェッサー)には
そう簡単にはなれない。
生徒からの評判、生徒が書いた論文の数、質などが
重要な選考ポイントになるのである。
「アップワードフィードバック」と呼ばれるものである。
要は、「人間性」がクライテリアの大きなポーションを
しめるようになるのだ。

かたや日本はどうか。
「そんなものあったら今ごろ苦労してないよ」
とこぼす人の姿が目に浮かぶ。
まったくと言ってよいほどこういった仕組みが 整備されていない。これこそが、
「高学歴者」=「人間性に問題がある人」の構図を
作り出しているといえる。

本当は、「高学歴者」=「一流企業社員」と
「一流企業要人」=「人間性に問題がある人」が
別々に存在しているのにも関わらず、
これが外目にはわからないため、
短絡して理解されているのである。

こうして日本における「学歴社会」の本質を
つまびらかにすることにより、
いくつかのことがわかってきた。
まとめると、
(1)学歴社会は効率の重視から生まれた合理的なもの
(2)高学歴者は実は「タフ」ガイ
  (ただし全員というわけではなく確率が高いということ)
(3)ここ10年来世間で言われる高学歴者像は、企業内の
   人材評価クライテリアのまずさのため、学歴の本質
   (根性で勝ち抜いてきたということ)とは
   かけ離れたものとなっている、ということだろうか。

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>ちゃらちゃらしているようでまとも、
というスガハラさんの考え方が
あらためてよくわかりましたねぇ。
このあたりの発想は、
西洋の騎士道(ナイト精神)とか、
日本の武士道なんかにも通底するように思うんですよ。
リーダーシップをとる人たちの、
「独自のモラル」とかについては、
ぼくは、呉智英先生の「人間は学歴だ」
という非常に誤解を招きやすい
(「封建主義者」としての)
逆説的なものいいが思い出されます。
単なる無条件平等思想から、
新しい騎士道精神ともいうべき
「リーダーシップのルール」なんてものが、
いま、もとめられているのですね。
ぼくは、幸い、高卒なのですが、
「美しいリーダー」には憧れてしまいますねぇ。
横浜ベイスターズの「権藤さん」は、
はやく「ごんどうかんとく」と呼ばれても失われない
「新リーダー論」を持ってくれたらいいと思うんですが。
「さん」で呼ばせるのは、
過渡期のリーダーだと思うんですがね。
ま、これは余談でした。
(darling)

1998-09-17-THU

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