第19回
「幅と歪みのある人生」(2) 異端者のすすめ
「個性の時代」とか、「横並び体質からの脱却」だとか
いう話を耳にするようになってから久しい。
日本がようやく成熟し始めてきた証拠のようにも思えるが、
実際のところどうなのであろうか。
単なるかけ声に過ぎないのであろうか。
最近、カリスマ美容師だとか、カリスマ店員、
あるいはスーパー読者(某女性向けファッション雑誌の
超リッチな読者を祭り上げたもの)など、
世の中「ヒーロー・ヒロイン」欲に溢れかえっているが、
この現象は、皆が完全に「自分」を見失い、
自分の「ロールモデル」を模索し始めたことを
示唆しているように思える。
嘘でもいいから「身近な」ところで偶像を作り上げないと
生きていけなくなった、といったところだろうか。
では、何故このような現象に陥ったのか。
「近年日本にはヒーローに値するような大物が
いなくなった」
とか
「不況の中で一筋でも明るい光がほしくなった」
などと、いかにも上滑りな分析を加えている
マスコミ批評を目にするが、これでは
あまりにも本質を衝いていない。
問題の本質はこうだ。
「異端」を許さない社会風土、が全ての元凶である。
社会があまりにも「異端者」を拒否し続けてきたため、
「異端」がイケナイことになってしまった。
その結果、それがいかに「小さな異端」であっても
隠さなくてはならないというマインドセットを作り上げた。
人間は生殖のためだけに生きている訳ではなく、
理性に従い「自分が生まれてきた意味」を探す
生き物である。他人と全て同じ、となれば、
たとえそれが短期的にはプラス(「異端者」と
言われなくて済む、という意味で)になったとしても、
「理性を持った生き物としての『本能』」で、
多大なストレスを産むに違いない。
私は、「切れる」「逆切れ」という概念
(本来人間社会ではあってはならない最悪のタブー)が
横行している理由も、ここにあると思っている。
このストレスが、カリスマ何某を乱発させている
一因に与すると信じる。
ガングロ、茶髪で、鼻にラパラのミノーを
2つもぶらさげながら渋谷を歩いていても、
驚くことにこれは「異端」ではなく「同質」化なのである。
大手町で金融ビジネスマンとして働いている人が
「そう」なら、明かに異端であるが、
渋谷では同質化ということになる。
何をするにしても「変なところ」まで皆と
同じでなくてはならないのだ。
その結果、彼らは必然的に自分の外に「異端」、
「憧れ」を見いだすようになる。
それが、カリスマ何某、という訳である。
私の学生時代の恩師が教授を退官されるときに
「どんなときもマイノリティであれ。
マイノリティは絶対に得をする」
という言葉を贈ってくださったのだが、
私は今でもそれが忘れられない。
一見逆説的なこの言葉に、全ての本質があるように思う。
異端で少数派であることの方が、本当は強いのだ。
いや、もしかしたら、異端でも生きていけるようになれば、
自然と強くなるということなのかもしれない。
「歪み」は「異端」の第一歩である。
「素晴らしい『異端』(=認められる異端)」になるには、
まず「健全に『歪む』」ことが大切である。
とにかく他人と少しでも違うところを見い出して、
それを思いっきり大切に育てる。
次に、それがマジョリティと違うことによって
生じる軋轢(他人からの誹謗中傷でもいいし、
自分の思いこみでもよい)を抽出し、
それがネガティブだと考えられる理由を分析してみる。
この段階で本質的に「ネガティブ」だと
自分でも思うのならストップ。
これでは単なる「変わり者」である。
一方、「本質的には全くネガティブではなく、
単に他と『違う』だけ、若しくは本当はこっちの方が
『優れている』」というのなら、しめたもの。
この場合、他人には真似のできないことを
やっていることになる。
これを足掛かりに「異端」への道を邁進するのである。
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