──とてもとても長いバージョン。作品はこちらをどうぞ。
菅原一剛(すがわら・いちごう)さんは、
1960年に札幌市で生まれました。
ただ2歳までしかいなかったため、
その記憶はないとのことです。
その後、ご両親の仕事の関係で、
東京〜熊本〜京都〜東京と、転校生な日々が続きます。
小さな頃は天文学者を目指し、
高校に行くと一転してミュージシャンを目指します。
学生の時に第一次バンドブームの最中、
ヤマハ音楽主催の大会に出場し、決勝大会までいきました。
しかしそこでは惜しくも敗れてしまい、
念願だったプロになることは叶いませんでした。
そんな訳で、夢だったミュージシャンを諦めた菅原少年は、
暫く将来は何をやろうかと悩んでいたそうです。
そして藁をも掴むように、
彼の敬愛するジョン・レノンが
アートスクール出身だったという、
それだけの理由で(?)その道を志します。
そしてある時、それこそ写真家になろうなどとは
まったく考えていなかった頃に撮った写真を
「菅原くんは写真が上手いね!」
と周りの人達に褒められたらしいのです。
本人が言うには、そこから勘違いが
始まってしまったらしいのですが、
その日を境に菅原少年は写真の道へと進んでいきます。
大阪芸大で写真学科を専攻し、卒業後は一旦、
早崎治氏主宰のハヤサキスタジオという会社に、
縁あって助手として入りました。
故・早崎治氏は、あの東京オリンピックのポスター
(100m走ランナーのスタートシーンを
真横から撮った写真です)を撮った
広告写真界の巨匠です。
“一旦”入ったというのは、その後暫くすると
彼は単身パリに行ってしまったからです。
すぐにチームリーダーになるほどの力があり
将来を嘱望されていたにもかかわらず、
彼は飛び出しました。
行き先は何処でもよかったと言っていますが、
それでも当時、駆け出しの写真家だった菅原青年は、
パリに写真文化というものがしっかり根付いていたお陰で、
周りの人からは畏敬の念をもって
いちアーティストとして接してもらえたそうです。
パリでは、美術学校にもぐりこんで講義をうけたり、
フランス人とアメリカ人の友人と組んで
コレクションのモデルの
ポートレートを撮るアルバイトをしながら
食いつないでいくなかで、チャンスが訪れます。
モデルが持参した写真を見た編集者が
「このポートレートを撮ったのは誰だ!?」と、
その写真家を呼ぶように言ったのです。
それは雑誌「ELLE」の編集部でした。
すぐに仕事をもらい、ビザをもらい、
ページをまかされるまでになりました。
ファッション写真家としては幸運なスタートです。
それでも、パリで本物の絵画をはじめとした
多くの美術と直接触れ合うことで、心のどこかで、
「写真じゃないかも?」と思っていたそうです。
ある日パリで、学生時代にギャラリーワタリで開催された
個展を観て以来、彼にとっては、
他の誰よりも特別な写真家だった、
ロバート・メープルソープの写真に再会しました。
その写真を観て、「やっぱり、写真は凄い!」と、
改めて感銘を受けたそうです。
そしてその日の昼下がりに、
どう写真を続けようか悩みながら
何となくぼんやりとカフェにいた菅原青年に
次の転機がおとずれました。
カフェのテーブルの上に乗せてあった自分の手に、
先程までドンヨリとしていた雲間から
スゥーッと太陽の光が差し込んできたのです。
(比喩ではなく、ほんとうに。)
菅原青年はその時、太陽の光が当たったところは、
なんて暖かいのだろうと感じました。
そして「そうだ! これを撮ればいいんだ!」と、
いままでのもやもやが一気に吹き飛んだそうです。
そして彼はすぐ日本に帰ることを決めました。
といっても、いきなりの話ですから、
友人たちにはずいぶんひきとめられたようですが、
日本に帰って写真と向き合うべきだという決意は揺るがず、
おそらくこれが菅原一剛の写真家としての
ほんとうの出発点だったのだと思います。
もしそのままパリにいたら‥‥?
拠点をヨーロッパに置いたファッション写真家に
なっていたかもしれませんね。
帰国後の菅原さんは、パリの頃とは180度異なり、
トラックの運転手などもやりながら、
自らの収入で作品制作を続けました。
しかしその想いとは裏腹に、なかなか思ったような写真が
撮れなかったそうなのです。ところがその頃から急に、
広告業界からの仕事の依頼が増え、
一時はファッション写真家としての仕事に
追われるようになってしまいます。
彼はその頃(1989年)に、ラフォーレミュージアムで
個展を成功させています。しかしそんな成功とは裏腹に、
パリで決意したことから離れてしまっている自分に気が付き、
そのファッション写真家としての仕事を
きっぱり辞めてしまいます。
そして、1996年にさらなる転機が訪れます。
初めて映画の撮影監督という役どころで、
沖縄を舞台に「青い魚」という映像作品に取り組んだのです。
菅原さんは、今まで写真家ゆえに
個人としてやって来ていましたが、
この映画の仕事を経験した事により、
仲間と映像を作り上げていく楽しさを知り、
翌年、有限会社ストロベリーピクチャーズを設立します。
そこから広告の仕事を再開し、
得た収入を湿板写真プロジェクトへと投資していきます。
湿板写真についてはのちに菅原さんから
コンテンツのなかで紹介があると思いますが、
紆余曲折を経て一つの完成形をみたこの湿板写真を
次々と発表していきました。
2003年、田中一村記念美術館にて
「あかるいところ」展覧会開催。
2004年、BEAMS NEWSにて
「GRASP THE LIGHT」展覧会開催。
2005年、キヤノンサロンSにて
「あかるいところ2005」展覧会開催。
2004年、フランスの国立図書館の
パーマネントコレクションに選ばれる。
2005年、NEW YORK PACE/MACGILLにて
「MADE IN THE SHADE」に参加。
同じく2005年には、アニメ「蟲師」の
オープニング・ディレクターの依頼があり制作。
写真を使った動画という新ジャンルに挑戦しています。
2010 年、サンディエゴ写真美術館に作品が収蔵。
2011 年、ソウルで個展「The Bright Forest」。
2012 年、個展「Tsugaru」を東京の
Leica Ginza Photo Salonでひらきました。
そして菅原さんは、
この連載をはじめると同時に
「東京観光写真倶楽部」というサークルを
はじめています。
菅原さんはまわりの友人たちから
「カメラがほしいんだけど、なにがいいですか」とか
「こんどの撮影についていってもいい?」とか、
「写真やってみたいんだよね〜」なんていう
相談を受けることが多くあるんです。
それがあまりにも多いので、いっそのことみんな集めて
撮影に行ったり、写真を見せ合ったりする会を
つくっちゃおう、ということだそうです。
ながながと菅原さんのプロフィールを書いてきましたが、
最初は展覧会で紹介されるプロフィールとは
異なるものを作ってみたくて書き始めました。
しかし、菅原さんのプロフィールを
書き進めれば進めるほど、
彼は写真家という立ち位置をきっちり守りながらも、
ある意味これまでの写真家とは明らかに異なる領域をも
歩き始めているのだなということが見えてきました。
そこは過去に誰も歩いたことのない場所だからこそ、
ぼくが彼のこれからにとても興味が湧くのだなということを
再確認出来た時間でもありました。
テキスト/清野章宏
菅原一剛写真研究所
‥‥菅原さんのHPです。
菅原一剛写真研究室
‥‥菅原さんのブログです。
ストロベリーピクチャーズ
‥‥菅原さん主宰の映像の仕事のチームです。
東京観光写真倶楽部
‥‥菅原さん主宰の写真のクラブのHPです。 |
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