糸井 |
親鸞という人は、
世間一般で言われていることとは
逆のようなことばかりを
言っていたような人なんです。
例えば
「善人なほもて往生をとぐ、
いわんや悪人をや」
(善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、
悪人は言うまでもなく極楽へ行ける、の意味)
という言葉は、テストで
穴埋め問題として出てくるような
有名な一行です。
「□□なほもて往生をとぐ、
いわんや○○をや」
□□と○○それぞれに、
「悪人」と入れるか?
それとも「善人」と入れるか?
たとえ正解を入れたとしても、
スッと納得できないですよね?
ですから、親鸞の言っていることを
もっと知りたいという気持ちが
僕たちは、強くなっていく。 |
吉本 |
そうですね、
親鸞は、言っていることがすべて
知識的に、逆説のように見えるんです。
例えば『歎異抄』
(たんにしょう・親鸞の弟子の唯円がまとめた、
親鸞の語録とされているもの)
の中で、唯円が親鸞に
「我々は浄土教ですが、
浄土というのは、
死んでから行くことのできる
安楽ないいところだといいます。
しかし、私は
ちっとも浄土へ行きたいと思わない。
それは、なぜでしょうか」
と質問した、という場面が出てきます。
すると、親鸞は
「俺もそうなんだ」
って、答えた。
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糸井 |
それは‥‥ものすごいことですね。
(註:親鸞や法然をはじめ、
浄土教のお坊さんは、人びとに
“「南無阿弥陀仏」と、となえさえすれば
死んだあとに極楽浄土に行ける”
と説いたといわれている) |
吉本 |
うん、すごいことなんです。
弟子の唯円のほうも、坊さんなのに、よくも、
「ちっとも浄土へ行きたい気がしない」なんて
率直に言いますよね。
たいへんな人だなと思うけども、
親鸞は「俺もそうだ」って、さぁ、
そいつはすごい。
親鸞はどうして「俺もそうだ」と言ったのか。
浄土があんなにもいいところだと、
ちゃんとお経にも書いてあるのに、
どうして行きたくないんだろうか。
親鸞という人は、そのことについても
答を即座に持っていました。
親鸞は、生きているこの世は
「煩悩の故郷」である、と言うんです。
人間の煩悩は、いまいるこの世に
執着を醸し出すものなんです。
だから、煩悩ある人間にとっては、
いくら「安楽な浄土だ」と言われても、
そこへ行きたくない、この世にいたい、
と思うのは、普通なんだよ、ということなのです。
親鸞は、そういう言い方で
弟子に即座に答えるわけです。
こっちは、もう感心のしっぱなしです。
うわぁ、すごいことを言う坊さんだ!
まぁ、坊さんというか‥‥ |
糸井 |
思想家というか。 |
吉本 |
そうですね。
当時で言えば、親鸞は大知識人であり、
大坊さんなんでしょうけど、
まあ「大」を入れなくても、
普通の坊さんでいいわけですけど、
坊さんたるものが、すごいことを言うものです。
たいしたもんですよ。
これをはじめとして、『歎異抄』という本は、
自分の胸に最も響いてくる本だと思って
まずは一生懸命読みました。
そうして、親鸞に関する本を読みはじめたら、
次々にわかってきたんです。
親鸞が、坊さんとしての戒律を
最初っから守りゃしなかったことなんかが。
(次回につづきます)
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