親鸞 Shinran 吉本隆明、糸井重里。




6 天国は、ありません。お経も、たいしたことない。

吉本 親鸞は、もう浄土なんてのは、
ねぇって言ってますよ。

浄土なんか実体としてどこにあるのか。
親鸞は、それは嘘だって言っています。
浄土というのは、ただ手段にすぎない。

それからもうひとつ、
「死ぬときの念仏は大切だ」という考えは、
中国時代から、代々つづいた
浄土教の教えですが、
親鸞は、それも嘘だと言います。
糸井 ええ。だって、突然、
死んじゃうかもしれないですもんね。
吉本 そう。
いつ死ぬか、いつ病気になるか、
誰がどういう病気になって、てさ、
そんなの、わからないですよ。
糸井 ほんと、そのとおりのことばっかり。
吉本 それに、「悟った、悟った」と言っても、
病気いかんによっちゃ、
「悟ったって苦しい」ということも
あるわけです。
そんなことは、誰にもわかりはしない。

ですから、臨終の念仏に重きを置くという、
その考え方も間違いである、
そこも、親鸞は明瞭に言い切っている。

何が、何が大切なのか。
何もない、何もないんです。

とにかく宗教、つまり、浄土教のほうから
普通の人の生活のところに近づいていくより
ほかにないよ、ということなんです。
近づいていくんだけど、
一緒にはどうしてもならない。隔たりがある。
そこをどうやって納得するんだ? ということは、
最後の最後まで詰めていっても、残る。

その、残ったところが、
親鸞が自分を
非僧非俗
(ひそうひぞく・僧侶でもないけど俗人でもない)
と称して、
最後まで固執した理由なんです。
その、固執した理由が
浄土真宗というものの教義の中核で、
それ以外の、何もないし、
何もまた、要らない。



浄土真宗のお坊さんは、いまもそうですよ。
お坊さんが法事でやってきたって、
こっちが酒を出したら、酒飲むしさ。
それでちょっとお経をね、
親鸞でも法然でもない、
蓮如の「白骨の御文章」の
「朝(あした)には紅顔ありて
 夕には白骨となれる身なり」

(朝に健康な者も、夕には死んでお骨になる)
みたいなのを読んでいきます。
だけど、こんなことは意味がねぇんだ、なんて
言いますからね。

こういう法事のようなものを機会にして、
親戚や家族みんなが
少しふだんと違った話をね、
できるような雰囲気を持てば、
それが供養なんだとかって
ちゃあんとそういうお説教をしていきます。
糸井 そんなことを言えるお坊さんというのは、
えらいですね。
吉本 まあ龍谷大学やなんかいくと、
教えてくれるんじゃないですか(笑)。
糸井 はははは。
でも、その考え方は、
お医者さんと合体させたらおもしろそうですね。
そのくらいのことを医者が言えたら
医療はガラッと変わるような気がします。
吉本 ああ、そうでしょうね。
スウェーデンとかデンマークとかオランダとか、
そういうところでは、やれてるっていいますね。
福祉の充実した国では
個人に狙いをつけるんです。
個人個人に狙いをつける限りは、
ほとんど老人まで、
非常に理想的な状態が実現してるというふうに、
北欧を見学してきた日本の人が言っていました。
糸井 うん。そうなるといい。
すごいですね。
吉本 すごいですよ。
税金が多すぎるとか文句言うやつ、
若い人もいないと言うし。


(つづきます)

2007-10-19-FRI



(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN