糸井 |
親鸞は大知識人でありながら、
普通の人たちのところへ入っていきました。
相手と自分の違いを
敏感にいつも感じていたでしょうけれども、
そこでもし、物質の交易がおこなわれていたら、
もっと楽だったでしょうね。 |
吉本 |
そうですね。楽だったと思います。 |
糸井 |
お札や仏像など、もののやり取りがあったら、
入っていけたでしょうね。
円空
(えんくう・江戸時代の仏師)
は、それに近いかもしれない。
ものを購入したときって、
そこに参加できるし、
そのものに仮託して平等になるんです。
うちの父親がお浄財を集めて
本堂を建て直すことになったときの、
共同作業のようなこともそうでしょう。
親鸞の頃は無理でも、
いまはできるんじゃないでしょうか。 |
吉本 |
ところがね、浄土宗は
もう少し後代になると、
それとは反対にいくわけですよ。
一遍(いっぺん)という、
時宗という宗教の開祖ですが、
その人の頃になると、また
宗教になっていっちゃうんですよ。
一遍の理念は、要するに
「人間は所有物に執着があるからいけないんだ」
というものです。
ですから、無所有にすれば、
この世界はそのまんまに
浄土になっちゃうというのが、
一遍の考えなんですよ。 |
糸井 |
それは‥‥追い詰めますね。 |
吉本 |
追い詰めてるんですよ。
そして一遍は、
「竹かごひとつ持つな」と言って、
「そういう人だけ、俺についてこい」
と言うんですよ。
それで、諸国を遍歴したわけです。
寄付してくれる食べものを食べて、
弟子たちもそうしていた。
ぞろぞろくっついて歩き、
死んだらそこが浄土だ、という考えです。 |
糸井 |
ある種のエリートというか‥‥。 |
吉本 |
そこまでは、だいたい
日本の浄土教も詰めているんですよ。
だけど、逆なんです。
省みて言えば、要するにそれは宗教だ、と
なっちゃうんです。
せっかく親鸞が宗教を解体しようと、
何を食ってもいいし、
戒律は守らなくていい、
妻帯しても何してもいいと言って、
自分も普通の人の生活に近づけようとして、
最後にどうしてもこれだけは
近づけようたって無理だ、
嘘をつかなきゃ近づけられないという、
そういうところまで詰めたのに。
一遍の頃には、それを逆に
宗教化しちゃうわけですよ。 |
糸井 |
それは逆にまた
じり貧になっちゃいますね。 |
吉本 |
そうなんです。
(つづきます)
|