親鸞 Shinran 吉本隆明、糸井重里。




7 解体か戒律か。浄土教が行き着いた突き詰めた考え

糸井 親鸞は大知識人でありながら、
普通の人たちのところへ入っていきました。
相手と自分の違いを
敏感にいつも感じていたでしょうけれども、
そこでもし、物質の交易がおこなわれていたら、
もっと楽だったでしょうね。
吉本 そうですね。楽だったと思います。
糸井 お札や仏像など、もののやり取りがあったら、
入っていけたでしょうね。
円空
(えんくう・江戸時代の仏師)
は、それに近いかもしれない。

ものを購入したときって、
そこに参加できるし、
そのものに仮託して平等になるんです。
うちの父親がお浄財を集めて
本堂を建て直すことになったときの、
共同作業のようなこともそうでしょう。
親鸞の頃は無理でも、
いまはできるんじゃないでしょうか。
吉本 ところがね、浄土宗は
もう少し後代になると、
それとは反対にいくわけですよ。

一遍(いっぺん)という、
時宗という宗教の開祖ですが、
その人の頃になると、また
宗教になっていっちゃうんですよ。
一遍の理念は、要するに
「人間は所有物に執着があるからいけないんだ」
というものです。

ですから、無所有にすれば、
この世界はそのまんまに
浄土になっちゃうというのが、
一遍の考えなんですよ。
糸井 それは‥‥追い詰めますね。
吉本 追い詰めてるんですよ。
そして一遍は、
「竹かごひとつ持つな」と言って、
「そういう人だけ、俺についてこい」
と言うんですよ。
それで、諸国を遍歴したわけです。
寄付してくれる食べものを食べて、
弟子たちもそうしていた。
ぞろぞろくっついて歩き、
死んだらそこが浄土だ、という考えです。
糸井 ある種のエリートというか‥‥。
吉本 そこまでは、だいたい
日本の浄土教も詰めているんですよ。
だけど、逆なんです。
省みて言えば、要するにそれは宗教だ、と
なっちゃうんです。

せっかく親鸞が宗教を解体しようと、
何を食ってもいいし、
戒律は守らなくていい、
妻帯しても何してもいいと言って、
自分も普通の人の生活に近づけようとして、
最後にどうしてもこれだけは
近づけようたって無理だ、
嘘をつかなきゃ近づけられないという、
そういうところまで詰めたのに。
一遍の頃には、それを逆に
宗教化しちゃうわけですよ。
糸井 それは逆にまた
じり貧になっちゃいますね。
吉本 そうなんです。


(つづきます)

2007-10-22-MON



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