親鸞 Shinran 吉本隆明、糸井重里。




8 親鸞は、道端の知性にたどり着いていた。

糸井 「善人なほもて」という言葉は、
やはり究極のテーマですが、
親鸞の考えのなかで
あともうひとつ挙げるとすれば、
「面々のはからい」という言葉です。
拝むのも勝手、拝まぬのも勝手、
という意味合いで出てくるのですが、
いわゆる人生相談でいえば、
「同じ答を答えられないよ」
ということでもあります。
そこは、僕のなかにちょっとだけ
「あ、親鸞は、調子のいいことを言うな」という
笑いに似たようなものがあります。

そのことは、あまりにも嘘じゃないんです。
それは、いわゆる普通の人たちが
平気で使ってる知性だから。
つまり、じいさん、ばあさんたちが
いつも使っているんです。
「おじいちゃん、違うことをあっちで
 言ってたじゃないか」
「そうだったかなぁ?」
って。その都度その都度で、
おじいちゃんは答えてる。

親鸞は少なくとも、
この「道端の知性」のようなところまでは
たどり着けてるんです。
そう思うと、大インテリって、
超インテリになれるんですね。
憧れますよ。
親鸞は、全体的に
調子のいいことを言っていて、かっこいいんです。



「自然法爾(じねんほうに)」の
「これでいいのだ」もそうで、
調子のいいようなことを言うんです。
みんなは、
バカボンのパパみたいに
「これでいいのだ」と言われると困る、と
言うかもしれない。
でも、困って何しようというんだろう?
そこで、自己の無限性について
みんな誤解をしてるんだと思うんです。

菩薩だったらいいけど、
ダンゴムシとたいして変わらない自分なのに、
ずいぶん世界を救う気じゃないか。
ちょっとだけ、そう言いたいときがあります。

救いきれないときに、
「もうこれでいいのだ」
というのを
小さい声で言うのが
ほんとはかっこいい。
だけど、バカボンのパパは、
でかい声を出せる設定なんです。
そこが赤塚不二夫さんの大発明ですね。
みんなはこの人のことを変だと思うでしょうね、
という場所で、ほんとうのことを
言わせるんですよ。

いちばん正しい答えに
近づきそうだと思っている自分の
生意気な弱さみたいなものを、
もういちど、
下駄履きのおっさんの
「何言ってるんだよ。飯食えよ!」
みたいなところに、
戻す必要があると思うんです。

それは有限性の、
「あなた」という人間の肯定です。
それができないと、
例えば目の前で泡吹いて倒れている人を見たときに
「これ、何の病気だろうね」
なんて、言いだしかねないですよ。

寺社や教会を持たなくても
きっと信仰できるんだけども、
教会を建てたくなっちゃう気持ちとか、
石の一個でもないと祈りにくいという気持ちとか、
そこに近いようなところだと思うんです。
そのあたりまで、「どうせそうなんだけどさ」と
知りながらいるぐらいが、
ちょうどいいんじゃないかな。

「ええ格好しいなんですけどね」って、
みんなが頭を掻きながら言ってくれると、
いいんだけどな。


(つづきます)

2007-10-23-TUE



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