フレデリック・バックさんを訪問してから、
瞬く間に、3時間が経っていました。
フライトの時間がせまり、
会見のお礼を述べ、辞去しようとした堤さんを
バックさんは
「ちょっと待ってくれ」と、引き止めました。
そして、アカデミー賞受賞作である
『木を植えた男』の原画を1枚、壁から外します。
何をするんだろう、と見ていると‥‥。
「その作品は、プラスチック製のフレームで
覆われていたのですが、
フレデリックは、いきなりハサミを持ちだして
そのフレームを
ジョキジョキ、切りはじめたんです。
もう、びっくりしちゃって」
!!!
「いま、彼が何をしようとしているかは
何となくわかったのですが、
何も言えず、手出しもできませんでした。
ぼくはしばらく、
そのようすを、眺めていました。
やがてフレデリックは、
フレームから作品を取り出しました。
そして、ぼくに手渡したんです。
この絵は、
君に持っていてほしい、と言って」
森のなか、年老いた木を植えた男を、
主人公の若者がついていくシーンの絵でした。
「ぼくは、受け取れませんって、言いました。
でも彼は、
私はもう、老い先長くはないから、
君の手にって。
絵に描かれているように、
ぼくら若いジェネレーションが
むかしから自然環境や動物愛護を訴えてきた
フレデリックの思いを
引き継いでいかなければならないと
本当に思いました」
別れ際、バックさんがくれた言葉は
「ミヤザキさん、
オファーを受けてくれるといいですね」
だったそうです。
‥‥この原稿を書き、
確認のために
アメリカの堤さんにメールで送ったところ、
ほどなくして
以下のような返信が届きました。
堤さんの了解を得て、
ここに、全文を掲載させていただきます。
彼は片目を失いながらも、
歴史上に残る名作『木を植えた男』を
つくり上げました。
そのエネルギーは、なんなのだろう。
きっと、映画人にとって
最高の名誉であるアカデミー賞を受賞しても、
それは、彼にとっては、
それほどの意味を持たないことだったのかも
しれません。
なぜなら、彼にとって『木を植えた男』は、
それ以上に
「世界に訴えたいメッセージ」を
切実に表現したかった作品なのではないかと
思うからです。
彼は残された片目をキラキラ輝かせて、
とても素直に、言ったんです。
「私やあなたは、絵やアニメーションという
表現のちからを持っている。
そのちからを、
未来を、少しでも明るく照らすことに
使えなければ、
いったい何の意味があるんだい?」
自らの表現が、世の中を良くする‥‥?
多くの人が、その言葉を避けています。
照れ屋の日本人にとっては
とくに、口にしづらい表現かもしれません。
でも、その言葉を、
あそこまで素直に口に出すことのできる
フレデリック・バックを前に、
私は、とても恥ずかしくなりました。
そして、フレデリック・バックという人の
人間の大きさ、
86歳になっても誠実に生きる姿、
それに比べ
自分の小ささを思い知り、
抑えきれない感情がこみ上げてきました。
私自身を含め、多くの人が、
エンターテインメントの世界で、映画をつくります。
作品の質に関わらず、
巨額の予算が投じられる「映画」の世界では、
興行収入が「いちばん大切」とされます。
自分の作品で、少しでも、未来を明るく‥‥。
アーティストの多くは
心のなかでは、そう思っているのかもしれない。
でも、その思いを
あそこまで素直に表現する勇気を持つ人は
どれだけ、いるのだろう。
フレデリック・バックから
いただいた絵は
「若者が、老いた木を植えた男を
追いかけているシーン」です。
私には「木を植えた男」がバックさんと重なり、
若者である私たちという
「次の世代」を、導いているように思えました。 |