「ほぼ日手帳」が生まれて、
2015年版で14年目を迎えます。
あらためて「ほぼ日手帳」のことを考えてみると、
もう、手帳という言葉だけでは
定義できなくなってきていると感じます。
ただ予定を記録するだけの
スケジュール帳ではないし、
ダイアリーでもないし、ノートでもない。
これはなんなんだろう‥‥と。

まず思うのは、
「ほぼ日手帳」にはみなさんの「LIFE」が
書かれているということです。
「LIFE」という言葉は「人生」と訳しますよね。
同時に「暮らし」という意味もありますし、
「LIFE」を動詞の「LIVE」にすると
生演奏の「生(なま)」という意味も
「住んでいる」「生きている」
という意味も含まれてきます。

つまり「LIFE」という言葉には、
「瞬間の命」のような生っぽい意味と
それから人生まるごとを指す
「人生」という大きな意味との両方があって
それってすごいなと、ずっと思っていたんですが、
みなさんが書いた「ほぼ日手帳」を見ていたら、
ああ、同じだなと気づいたんです。
仮に、1日1ページの「ほぼ日手帳」を
1枚ずつ破いて、広い場所に並べるとします。
そうすると、1日分なんて、
全体から見るとちっぽけな1枚です。
そのなかには「とんかつを食べた」とだけ書かれている
なんでもない日もあれば、
「子どもが生まれた」と書かれている
特別な記念日もあるし、
何も書かれていない、真っ白な日だってあるでしょう。
そのすべてが記録であり、
起きたことそのものは、生の「LIVE」です。
そういう「LIVE」の1ページを
ミルフィーユのように全部重ねていったら、
「これが私の人生です」って言えますよね。

うまいたとえになるかどうかわかりませんけど、
先日、ある野球選手が自分の日常を
記しているものを読んだんです。
ぼくはてっきり、
野球選手というのは常に野球について考えていて、
書かれていることも野球のことばかりだろう、
と期待していたのですが、実際には、
「飼っている犬がかわいい」とか
「犬が胸に乗ってきた」と書いているばかりで
まったく野球の気配がなかったんです(笑)。
でも、そういうのも、全部ひっくるめて
「その人」なんだよな、と思うんです。

自叙伝や伝記を出すような人生を送っている人は
世の中にそんなにいませんよね。
だけど、手帳に書かれている日々の暮らし、
仕事をしたり、遊んでいたり、
怒っていたり、笑っていたり‥‥
それは生きることそのもの。
みんなの「LIFE」が詰まった手帳は
それ自体が自叙伝であり伝記なんです。
ただ大勢に配る手段を持っていないだけで、
みんな実は、ひとり1冊、自分の本を持っている。
誰かが読んでくれるかもしれないし、
未来の自分が読むかもしれない。
「BOOK」というのは
既に印刷されたもののことを指しますが、
「ほぼ日手帳」は、後で読みかえすときに
あらわれてくる「BOOK」なんです。

ひとりひとりの1年が詰まった「BOOK」。
それはきっと、全何十巻のうちの1冊。
誰もがそういうものを持っていると想像すると
なんだかいいなぁって思えます。
同時に、みんな、ひとりひとりが、
誰かに大事にされるべき人なんだという、
敬意みたいなものが持てたりするんじゃないかな。
それは、自分に対しても、他人に対しても。

だから、今年から、こんなふうに定義させてください。
ほぼ日手帳は「LIFEのBOOK」。
あなたという作者がいて、
はじめて成り立つ本なんです。
ほぼ日手帳2015、はじまります。
どうぞ、よろしくおねがいします。


糸井重里

 

 

 
2014-08-18-MON