ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 気仙沼 続・丸光食品 篇
第4回 みんなの、うどん屋。
── もうこの際なんで、お聞きしますけども。
敬子さん ええ。
── 敬子さんは、茂さんのどういうところを
好きになったんですか?
敬子さん え? どういうところ? うーん‥‥。

一般的に説明してんのは
「価値観がいっしょ」だと思えたから。
── ‥‥一般的じゃない理由が、何か?
敬子さん ほら、あたし、昔いろいろあったでしょ。
── ええ、たっぷりお聞きしました。
敬子さん だからね、まわりからは、好きな人ができたら
過去の話は絶対するなって言われてたの。

家出したり、でっかい車を乗り回したり、
大きな借金を返したり、
そんなこと、言わなくてもいいことだからって。
── なるほど。
敬子さん だけど、自分がやってきたことについては
何ひとつ、後悔してないんです。
── はい。
敬子さん だから父ちゃんには、ぜんぶ言ったんです。
そしたら父ちゃん、何も言わなかった。
── はー‥‥。
敬子さん だからわたしは、父ちゃんと結婚しようと思ったし、
卑下してるわけじゃないけど
こんなわたしを拾ってくれたんだから
一生、父ちゃんとがんばっていこうと思ったんです。
── それまでは、東京で会社を経営されていたけど、
気仙沼の製麺屋さんに嫁ごう、と。
敬子さん うーん、製麺屋さんにお嫁に行くという意識は
あんまりなかったんですよね。

父ちゃんと結婚するために‥‥というだけかな。
── つまり、製麺屋さんのお仕事をやるかどうかは
とくに決めずに‥‥ということですか?
敬子さん いいえ。

わたしの目的は、父ちゃんと結婚すること。
父ちゃんと、いっしょになること。

そのために気仙沼へ来たんだから、
父ちゃんが製麺屋さんをやってんだったら、
いっしょにやるのは当たり前です。
茂さん (やや照れる)
── なるほど、なるほど。

じゃあ、どっちかっていうと、
敬子さんからアプローチをしてたんですか。
茂さん いや、そういうわけでもなくて、
わたしも、東京に通ってたんですよ。

わたしの場合は
スープラじゃなくて夜行バスだけど。
── プロポーズは、どちらから?
茂さん 製麺屋って、年末が忙しいんです。
年越しそばの需要とかあって。
── ええ、ええ、なるほど。
茂さん クリスマスなんかやってられないくらいに
忙しいんですけど、
1999年の12月24日の夜に、
仕事が一段落してから
東北道をすっ飛ばして東京へ行ったんです。

もうちょっとで夜中の12時をまわる‥‥
ギリギリのところで、
婚約指輪を渡すことができたんですよね。
敬子さん 指輪が、クリスマスに間に合ったの。
── おおー! いい話!
茂さん いやぁ、まぁ(笑)。

で、岩槻のサービスエリアでお茶を飲んで、
次の日、忙しいから
また、気仙沼にすっとんで帰ったんです。
── いま、お話をお聞きしていて、
こんなにも、おふたりの仲がよかったら、
これからの再建も、
絶対に何とかなる気がしました。
茂さん やはり、社会の最小単位ですからね。
夫婦というのは。
── すでに何の取材なんだか
よくわからなくなってきてるんですが(笑)、
素敵な話をありがとうございます。
敬子さん 「新婚さんいらっしゃい!」じゃないですよね?
茂さん まあでも、歳も歳なんで、
これからはお互い、身体には気をつけてね。
── そうですよね。
せっかく、地震でも無事だったんですから。
茂さん そう‥‥震災の日ね、
たまたま、東京からお客さんが来てたんです。
── 茂さんと、いっしょに逃げたんですよね。
茂さん 命からがら、なんとか東京へ帰ってもらって、
わたしたちも、ほっとしたんです。

でも‥‥。
── ええ。
茂さん とても元気のいい人だったんですけど
震災から一月くらい経ったころ、
突然、亡くなられてしまったんです。
── それは‥‥。
敬子さん 急なご病気だということで。
茂さん すごくショックでした。
亡くなったと言われても信じられないんです。

だって、わたしといっしょに
あの地震と津波から、生き残った人なんです。
── はい。
茂さん お線香を上げに行きたかったんですが、
震災直後、まったく余裕がありませんでした。

せめて
その人の勤めていた会社にお手紙を出して、
奥さまにお渡しください、と。
── ええ、ええ。
敬子さん そうしたら
その奥さまから、すぐに返事が来たんです。

でね、その封筒の中にね‥‥
震災の「お見舞金」が5万円も入ってたの。
── ああ‥‥。
敬子さん その亡くなられたかたは
「丸光さんのおかげで命が助かった」って
言ってくださってたそうなんです。

だから、
「主人も天国から見ていると思いますので、
 再建、がんばってください」って。
茂さん わたしは、いまになって、こう思うんです。

もし、あの日、その人が気仙沼へ来なかったら‥‥
その人を逃がそう、
なんとか無事なところへと思ったからこそ、
会社をそのままにして、出たんです。
敬子さん つまり、父ちゃんも逃げ遅れないで済んだ。
── そうか。
茂さん だから、逆にわたしのほうが
救われたんだって思うようになったんです。
── なるほど‥‥。
敬子さん もし、もしも、ほんとにそうなって、
父ちゃんが、そのときに津波にのまれてたら
わたし、再建しなかったと思う。
── そうですか。
敬子さん だって、ひとりじゃ何もできないし。
茂さん だから、
途方に暮れてる場合じゃないんですよね。

何としてでも、再建するしかないんです。
助けられたようなもんなんですから。
敬子さん 生かされてるんだよね。

その人にも、
ファンドで助けてくれているみなさんにも。
── うん、うん。
敬子さん 生き残った人もいる、亡くなった人もいる。

わたしたちは、幸運にも生きているけど
亡くなった人たちのことを背負って‥‥なんて、
かっこいいことは、言えない。

そんな、大きな力はないです。

でも、立ち上がんなきゃ、いけないんだと思う。
── はい。
敬子さん これまで、お世話になった人たちに対して、
「一生つきあっていくこと」が
わたしのできる恩返しだと思ってるんです。

それと、心配かけちゃった人たちに対しては
今どこでどうやって暮らしているか、
つねにお知らせして
安心してもらうことが恩返しだと思ってます。
── ええ、ええ。
敬子さん そして、セキュリテのファンドで
うちのことを知らなかった全国の人たちが
お金を入れてくれている。

この人たちに対しても、
一生をかけて恩返しをしていきたいんです。
茂さん 自分たちだけでは、
とてもとても、ここまで来られなかった。

いま敬子が言った、すべてのみなさんの
あと押しがあったから、
諦めずに、やってこれたと思っています。
── そうですか。
茂さん だからもう、丸光食品は
「みんなの会社」みたいなもんなんですよ。
── ああ‥‥。
敬子さん ほんとそう。みんなの、うどん屋なんです。
丸光食品は。
<終わります>
2012-03-26-MON
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