ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 陸前高田 八木澤商店 篇
第3回  アホがまかり通る状態になった。
糸井 震災が起きてすぐのタイミングで
代表取締役社長に就任したじゃないですか。
河野 ええ、地震の4〜5日あとに。
糸井 ああいう時期でしたから、
何というか、
ものすごく「意思」を感じたんですよ。

先代の社長、つまり河野さんのお父さんが
「給料を配るぞー」って言って
社員さんに給料袋を配っている場面を
テレビで見ていましたから。
河野 わはははは、あれねぇ。
糸井 社長の交代って、
どちらから言い出したことなんですか?
河野 すでに経営権の移行は済んでたんです。
糸井 あ、そうだったんだ。
河野 人事権、金融機関とあいだの裁量権、
会社の方針についての意思決定権、
5年くらい前から、すべて私にありましたから。
糸井 なるほど、そうだったんだ‥‥。
河野 社長という肩書じゃなくても
経営の仕事はできるというスタンスだったので。
糸井 じゃあ、なんでこのタイミングで?
河野 社員はもちろん、取引先や金融機関も
これからの八木澤商店がどうなっていくのか、
当然ながら、大きな不安を抱いていました。

でも、私が「社長をやる」と言ってしまえば、
再建への意思表示になりますから。
糸井 しかも「長いレンジの話」に聞こえますね。
河野 親父も、お客さんが来たときには
「商売の話は息子とやってくれ。
 オレとは、
 醤油の文化の話をしよう、
 町の歴史の話をしよう、
 夢の話をしよう」と。
糸井 つまり「シンボル」なんだ、お父さんは。
河野 前々から
「取締役広報宣伝部長に徹するから」と
公言していましたので。
糸井 テレビで、お父さんが
「みんな、これが何だかわかるか?
 給料だぞ!」って言った
あの姿を見てから、
被災地に関する考えがまとまったんです。
河野 ‥‥というと?
糸井 つまり、もともとそう言えたらいいなって
思ってたことなんですけど、
被災地に対しては「希望を語る」ことでしか
何もできない、ということです。
河野 あのとき、うちの経理課長が
お母さん、お姉さん、姪っ子を亡くして
遺体捜索をしていたので‥‥。

前の日の晩に、私とお袋とで
必死になって給料袋に現金を入れたんですよ。

慣れないもんだから
「合わない、合わない」みたいにやったんで
計算間違いもあったり(笑)。
糸井 ほんとですか?(笑)
河野 ‥‥最終的に3千円ぐらい合わなかった。
糸井 あ‥‥。
河野 誰かが多くて、誰かが少ないんです。
みんなごめん、みたいな(笑)。
糸井 でも(笑)、給料袋を配るあの姿を見たら、
「社長のいちばんの仕事は
 給料を払うことだ」ってことが
あらためて、はっきりわかりましたね。
河野 そうですね、それは。
糸井 ちなみに、たしか陸前高田って
西條剛央さんが
重機免許取得のプロジェクトやってる
自動車学校がある‥‥。
河野 陸前高田ドライビングスクールですね。

私の大先輩なんですが、
そこの田村滿社長は親父と1歳違いで。
糸井 やはり、お知り合いでしたか。
河野 私も、はっきり言いますと
親父の言うことは聞きたくないわけです。
親子ですから。

でも、中小企業家同友会の
支部長と幹事長の間柄だった田村さんに
同じことを言われたら、
これが、すっと耳に入ってくるんです。
糸井 なるほどね(笑)。
河野 あの自動車学校、
一時、野戦病院みたいになってましたけど、
何でもOKなんです、あのヒゲのオヤジ。
糸井 いいですねぇ(笑)。
河野 地震が起きてから3日目めくらいに
田村さんのところへ行って
「八木澤商店もぜんぶ流されちゃったから
 事務所を貸してほしい」って
頼んだんですよ。

そしたら、なんとも快く
「いいよ! 2階使えよ!」って言うので
登ってったら、ぐちゃぐちゃに崩れてて
ぜんぜん使えないんですよ(笑)。
糸井 あら(笑)。
河野 でも、盛岡の中小企業家同友会にいる
別のオヤジが
田村さんの敷地の隅に
プレハブをつくってくれたんですね。

しばらく、そこを拠点にしていました。
糸井 はー‥‥。
河野 田村さんって、
ふだんはしょうもないダジャレばっかり言ってる
ヒゲのおっさんなんですけど。
糸井 ええ。
河野 指針を示してくれる人なんです。
糸井 話を聞いてると、そうみたいですよね。
河野 ことしの1月、ふたりきりになったときに
「決算書、
 下手すると赤字になるかどうかの
 ギリギリだから
 来年の昇給は難しいかもしれない」って
ふと、田村さんにこぼしたんです。
糸井 1月と言うと、震災のちょっと前だ。
河野 そう、そうしたら
「通洋、お前がいつもまわりに言ってること、
 ありゃあ、ウソだな」って。

「いつも社員を大切にするだなんて
 言ってるけど、ウソなんだな?」って。
糸井 ‥‥ほう。
河野 もう1月くらいには、
3月の決算表って読めるじゃないですか。

でも、田村さんは
「お前も経営者のはしくれだったら
 なぜ
 3月31日までソロバンをはじかない?」と。
糸井 おおー‥‥そうだそうだ(拍手)。
河野 「最後の最後まで、
 それがたった1円だったとしても
 報いる努力をなぜしない?
 経営を悪化させたのは誰だ? 
 社員か?」と。
糸井 みごとです。
河野 同じことを親父から言われたら
「なにィ、このやろう」となりかねません(笑)。
糸井 仮の事務所を自動車学校の隅に建てたあと、
はじめは、どこから手をつけたんですか?
河野 まずは、救援物資を配る活動をやってましたね。

でも‥‥そうこうしてるうちに
内閣府だの国連だのと
みなさん、たくさん、いらっしゃったんです。
糸井 ええ、ええ。
河野 で、国連のWFP(国連世界食糧計画)が
テントを張るっていうからで、
「その中で商売していい?」って聞いて。
糸井 商売というのは‥‥。
河野 商店やら、飲食店やらですね。

でも、あちらの回答は
「基本的には、物資を保管する基地です」と。
糸井 つまりダメだと。
河野 「ただ、立てたあとは知りませんけど」と。
糸井 ようするに、黙認してくれたんだ。
河野 橋勝商店という菓子問屋の橋詰社長が
実行委員長になって、
保健所に行って
6枚、営業許可証をもらってきたんです。
糸井 おお!
河野 町の飲食店とか商店の主人たちは
避難所にいたので‥‥。
糸井 腕を持て余してたんですね。
河野 そうです。

そこで、避難所を駆けずりまわって
「商売をやろうぜ、
 営業許可、取ってきたから」って。
糸井 うれしいだろうなぁ!
河野 ‥‥ま、これ、許可証出した保健所も
保健所だなと、思うんですけどね。
糸井 ‥‥というと?
河野 なにしろ、たったの3日間で建てた、
木の掘っ立て小屋ですから。
糸井 ああ‥‥設備的に。
河野 掘っ立て小屋っつったら
建てた人に失礼ではあるんですけど、
まぁ、そのようなもので。
糸井 ええ。
河野 そういった建物に「流し」を付けて、
許可証もらいに行ったんですよ?
糸井 つまり、最低限それがないと
許可が降りない設備だけをつけて。
河野 それも
「3日後に、こういうものが
 建つ予定なので」と。
糸井 え、「予定」で取ったんですか?
河野 「建つ予定でありまして、
 設計図面これですんで、ちょうだい」と。
糸井 はぁー‥‥。
河野 そしたら、出したんですよ、保健所が。
糸井 はぁー‥‥。
河野 よくよく考えたら、すごい話だと思って。
糸井 設計図面を描く人や大工さんは‥‥。
河野 仲間うちで、ぜんぶ。
糸井 そうか、そうか。
河野 それぞれの専門家はいますんで。
糸井 そういうときの実行の底力って、
ふだんから顔を合わせている仲間だからこそ、
ですよね。
河野 だから、それまでに「もう廃業する」って
決めてた奴らにも
むりくり「どさくさまぎれに復活しろ」と。
糸井 どさくさまぎれって(笑)。
河野 震災が起こる前に「廃業する」って
決めてたところにまで
「どさくさにまぎれて、復活しちまえよ」
みたいな(笑)。
糸井 でも、何もしないでいるよりは
動くことで、何かが変わりますもんね。
河野 そうなんです。
糸井 ‥‥かっこいいなぁ、なんか。
河野 その傍らでは
きちんと陸前高田のビジョンを絵にして、
総務省や内閣府に提案し、
議案に乗せてもらってる奴らもいたり。
糸井 さっきの‥‥中小企業同友会の?
河野 はい。
糸井 そこに、人は何人いるんですか?
河野 陸前高田と大船渡で80人。
糸井 えっと、それだけ?
河野 はい。
糸井 話をお聞きしていると、
スーパーマンとは言わないまでも
すごく達者な人たちばかりに思えるんですが。
河野 ふだんはアホばっかりなんですよ、これが。
糸井 つまり、震災を経て
アホがアホじゃなくなった、ということですか?

それとも、アホには、
「アホな面」と「アホじゃない面」があるって
ことですか?
河野 いやいや、
アホは、アホのまんまでいるんです。
糸井 じゃあ‥‥。
河野 ようするに
アホがまかり通る状態になったんです。
糸井 世の中が。
河野 そう。

<つづきます>
2011-09-29-THU
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(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN