判断は必要ない。困難を乗り越えるだけ。
「震災直後は情報収集と生存者の救出に全力をかけた」。
立谷市長はご自身が綴った市民への文章のなかで
3月11日のことをそう振り返っています。
孤立者の解消、避難所に入った人の保護、
住民基本台帳と生存者の照合‥‥。
情報が錯綜するなか、当日の深夜3時に
相馬市役所で対策会議が開かれます。
そこで、立谷市長は
「これからやるべきこと」を
1枚のシート(A3の紙)に落とし込んでいきます。
それ以後、相馬市の具体的な対策は、
そのシートを元にして行われるようになりました。
震災から11時間後という混乱のなかで、
全体の指揮系統を「誰にでもわかりやすく」
1枚の紙にまとめたときのことをうかがいました。
「要するに行動目標を決めたんです。
短期的な目標、中期的な目標、長期的な目標があるなかで
いますぐやらなくちゃいけないことはなにか、
ということを整理して確認しあった。
それを通して、今後の行動の方向性をみんなで共有して、
1枚のシートにまとめたんです。
そのシートがコピーされて
各現場の担当者にまでおりていく。
その方法、伝わり方が非常によかったので
それ以来、ずっとその1枚のシートを進化させていく、
というやり方をとっていきました。
まあ、要するに『箇条書き』ですよ。
将来に向かって、いまやらなきゃいけないことの箇条書き」
混乱する現場に、
いち早くそのシステムをつくったことの
意義と冷静さについて言及すると、
市長は「そんなたいしたことじゃない」と首を振ります。
「誰でもやりますよ、そんなこと。
ふつうの役所の事務ってそういうものだもの。
たとえば、本をつくるときの目次みたいなもので、
それがなかったらできないんだもの。
やるべきことをわかるように書いただけだからね。
誰だってやると思うなぁ。
そうしないと仕事できないじゃないですか」
被災直後の相馬市原釜地区。
しかし、やるべきことはおそらく膨大にあって、
優先順位をつけるにしても、
容易ではないだろうと思えます。
「いや、難しくないですよ。
だって、対策本部長は私なんだもん。
私がこれだって決めて書いちゃえばいい」
「じゃ、判断に困ったことはなかったんですか」と
ことばを変えると、市長はこうおっしゃいました。
「判断に困るというか、状況に困るわけです。
たとえば人工透析の薬があと3日分しかない。
薬がないというか、薬屋さんが逃げていなくなってる。
患者は動ける状態ではない。
だけど、投げ出すわけにいかないでしょう?
それは判断がどうこうということじゃなくて、
『どうにかして薬を確保するしかない』わけです」
つまり、
「どう判断するか?」ということではなく、
そこに「困難がある」というだけのこと。
「そうです。
判断じゃなくて、目の前の困難対してどうするか。
どうやってその困難を乗り越えていくか。
だって、やるということは決まってますからね。
薬がなくなって困る人がいたら、
薬を確保するしかない。だから取りに行く。
それは困難であって、判断でもなんでもない」
当たり前のように、立谷市長はそうおっしゃいました。
当時のことを調べてみると、
震災直後、立谷市長はそのようにして
多くの「困難」を迅速に乗り越えていきます。
ガソリンを他県から取り寄せ、薬を確保し、
仮設住宅の用地確保に動き、必要があると判断して
棺、つまり棺桶の手配にまで動きます。
趣旨から外れるエピソードですが、
用意した棺桶は、立谷市長の予想を超えて、
相馬市ではなく陸前高田市で役立つことになりました。
陸前高田では火葬場が流され、
やむなく遺体をビニールシートにくるんで
仮土葬をするところがあったそうです。
立谷市長が用意した棺の何割かは、
その痛々しい現場に送られたそうです。
立谷市長は平成14年から市長を務め、現在4期目。
行政の基本は「すごく不幸にしない」こと
震災から4日後、混乱する市民に向けて、
立谷市長は「籠城」という文章を公表します。
それは、簡単にいうと、
「物資はなんとかして準備するから、
相馬市から離れずにいっしょにがんばろう」
というメッセージでした。
「まあ、籠城っていうと大げさですけどね。
国が、そこはダメだから逃げろというのであれば、
それはしょうがない。国家の指示には従うしかない。
だけど、退避命令は出ていない。
周辺地域からは逃げ出す人も増えてるし、
逃げなくていいのかという声も出ている。
でも、私は『逃げるリスク』のほうが気になった。
とくに、病人を一斉に輸送するリスク、
受け入れ先の定まってないままに
流浪するリスクというのは非常に高いんです」
立谷さんは内科のお医者さんで
現在も自らが開院した
相馬中央病院の理事長を兼務しています。
それは、震災後のさまざまな困難を乗り越えるうえで、
大きく影響しているように思います。
「やっぱり、医療の現場を知ってますから。
医療の現場で重症患者を診てきてると、
あの人たちを動かすなんて
とんでもない、って思いますよ。
よっぽどのことあったら動かしますよ?
たとえば火事が迫ってたら動かします。
福島第一原発の事故があって、
放射能についての心配はたしかにありました。
でも、私は知識として、原発につかうウランと
原子爆弾につかうウランでは、
種類も濃縮率も違うというのを知ってましたから、
間違っても核爆発が起こったりはしないとわかってた。
線量計も持っていて、放射線量も測ってましたから、
45キロ離れた相馬市が、数日で大きな影響を
受けるわけではないということもわかってました。
だから、『籠城』というのは、
わかりやすいことばとしてあえてつかいましたけど、
けっきょく、国が避難命令を出してないのに、
自分たちから逃げるのは
リスクが高すぎると思ったんです。
だったら、物資が自由に入ってこなくて苦しいけど
なんとかするから、ここでがんばろうと。
そのほうがリスクは少ないと書いたんです」
リスクについての考え方は、
立谷市長の根本的な政治姿勢に直結します。
市長は、やり取りのなかで、
少しだけ体温を上げるような感じで、
こんなふうにことばをつづけました。
「行政の長の判断基準の最大のものというのは、
『すごく不幸にしない』ということなんですよ。
選択肢があったら、リスクの小さい方を選択する。
『ほんとに不幸な人間をつくらない』というのが
私の考える行政の基本的な方向性なんです。
たとえば、『夢をあきらめずに追い求める』
なんていう謳い文句があります。
でも、そんなことは、社会や生活の基礎が
できてはじめていえることであって、
『夢をかなえる』ことができるのは
もう、数パーセント以下という限られた人のこと。
行政の義務というのはそこじゃなくて、
ほんとに不幸な人間を作らないということなんです。
だから、低い確率の『いいこと』よりも、
『悪くならないこと』を考えないといけない。
集団で避難する危険をおかさずに
ここでがんばろうと決めたのも、
リスクを比べた結果です。
行政というのは、そういうものだと思う」
それは、あの震災が起ころうが起こるまいが
変わらないスタンスですか、と問うと、
市長は即答しました。
「震災があろうがなかろうが、
それはもう、そういうこと」
だってあなた、自分の家族のことを考えてごらん、
と市長はおっしゃいました。
夢を追い求めるよりも、まずは基盤となる生活。
市長は明快に論をつづけます。
「震災のあと、いち早く、仮設住宅を手配したり、
医薬品をとりに行ったのも同じことです。
争奪戦になることがわかっているんだから、
後から参加したんじゃリスクが大きくなる。
だから、ほかより先に動く。
そのほうがリスクが小さくなる。
それはもう私の行政としての哲学だよね。
リスクの小さい方を選択する。
リスクが小さくなるように、小さくなるように」
震災当時はこの市長室に寝泊まりしていたそうです。
たぶん、私は、つまんない市長なんだと思う
その説明に深くうなずきながらも、
勝手ながら、少し、気になることもありました。
そういう真摯な姿勢は、
きちんと理解されるものでしょうか。
「夢をつかもう!」というわかりやすいことばのほうが
人々の気持ちをつかむのではないでしょうか。
素直にそう言うと、市長はあっさりと言いました。
「私は、あんまり人気はないと思う」
それは、とくに悲しげではなく、
過度に自虐的な感じでもなく、
あくまで冷静な、淡々とした口調でした。
「行政は、競馬場で馬券を買うのとは違うんですよ。
競馬場行って馬券買うときは、
ええい、って言って万馬券狙うんだ。
それはそれでいい。
だけど、人の生活がかかっているところで
万馬券を狙うわけにはいかない。
行政がなにかやるときは、
『リスクがないように』考えなきゃいけない。
リスク管理そのものが行政だともいえる。
実際、震災の後にやってきたのはおもにリスク管理。
PTSD対策、子どもたちの放射線の被曝調査、
ぜんぶ、リスク管理ですよ。
だから、たぶん‥‥
つまんない市長なんだと思うんだ、俺」
話しているうちに、いつの間にか
市長の一人称に「俺」が混ざってきていることを、
なんだか妙にうれしく感じました。
「だから、『夢を決してあきらめるな』、
なんてことは、無責任に言えない。
それよりは、現実をきちんと見る習慣をつけてほしい。
現実を見ないまま、大きくなっちゃいけないと思う。
いま、社会に強い人と弱い人がいるとしたら、
いちばん弱い、力のない人に合わせて、
世の中をつくっていかなきゃいけない。
行政は弱者を救済していかなきゃいけない。
なぜかというと、自分が強い立場にいるか、
弱い立場にいるかというのは、ただの確率だから。
あるとき大病をわずらうだけで立場は変わる。
それは社会が持ってる確率なんです。
つまり、たまたまその人はそこにいる。
誰もが弱者になる可能性がある。
自分は大丈夫でも、子、孫、ひ孫、
いつ立場が変わるかわからない。
だとしたら、つねに、弱い人たちのことを
みんなが自分の問題だと考えないといけない」
医療の現場が立谷市長の原点。
殉職した消防団員の方への思い
震災の話をしてたのに、
なんでこんな話になったんだっけな、と言って
立谷市長は少し照れたように笑いました。
そして、現在の相馬市の教育について、
働き手が切実に求められている進路である
看護学校や高等専門学校に進む学生が
減っていることを嘆いたあと、
こんなふうにおっしゃいました。
「俺の言ってることは、
ものすごくつまらないことだと思う。
若者が聞いたら、バカ市長って言われそうなことだ。
せっかく夢持ってるのに、なんてこと言うんだって。
そう思うよ。俺、ものすごくつまんないこと言ってると。
だけどね、やっぱり市長をやってると、
就職の相談なんてされることもあるし、
人生がうまくいかなかった人たちの話も聞く」
きみは奥さんはいるのか、と市長はおっしゃいました。
「います、子どもも二人います」と答えると、
「じゃ、わかるだろう」と市長は笑いました。
そして、ちょっと違う顔つきになって、
こんなことをおっしゃいました。
「津波で死んだ消防団員たちの子どもたちを
できるかぎり保障するようにしたのも、
そういうことなんだよ。
親に代わって考えたら、ということなんだ」
立谷市長は、3月11日の震災直後、
押し寄せる津波に備えて沿岸部に住む人たちを
速やかに避難させるように指示します。
避難誘導にあたったのは地元の消防団。
具体的には、第3分団と第9分団。
備えたとおり、津波は沿岸部を襲いました。
ただし、気象庁の予報では、
津波の高さは1~3mとなっていましたが、
実際に押し寄せたのは9mを超える大津波でした。
消防団からは10人の殉職者が出ました。
その子どもたちはぜんぶで10人で
全員18歳未満でした。
立谷市長は、消防団員の子どもたちだけでなく、
震災で親を亡くした子どもたちを
救済するための生活支援条例をつくりました。
対象となった51人が18歳になるまで月々3万円を支給。
成長するまでの経済的負担の一部を
市の責任で担っていくことにしました。
財源を確保するための寄付も募りました。
「あれだけの津波に襲われた沿岸部から
9割の住民を避難させることができた。
その判断については、後悔していません。
しかし、結果的に殉職者が出てしまった。
それは‥‥やはり、責任は感じます」
遺児のための生活支援条例づくりを報告する
市長のメールマガジンでは、
殉職した消防団員の方たちに対して、
つぎのようにつづられています。
「社会人として自立する前の子供たちを残して、
死んでいった彼らの気持ちを思うと
胸が苦しくなる。
さぞや無念、心残りだったろう。
多くの市民を助けた代償としても、
余りにも重く、辛い。
相馬市が続く限り、
市民は彼らを忘れてはならない」
現在は解体されている原釜地区の卸売市場。
いまの困難は、風評被害。
東日本大震災から3年が経って、
いまある「困難」はなんですか、と訊いたところ、
立谷市長はすぐにこう答えました。
おそらく、ずっと考えていることなのだろうと思います。
「風評被害。
震災があったあの日の夜、
方針のシートをつくったときから、
ここまで進むんだ、ここまで進むんだって、
ひとつひとつ、目の前のものに取り組んできた。
いい結果が出る、出ないという以前に、
こう進むんだっていう方向性を
示すことによってみんなが安心できる。
あれから3年経って、だいぶ復興も進んできた。
復興住宅のための造成も進んでる。
先々考えて、ひとつひとつ目処をたててきた。
農地も、一部、200ヘクタールほど、
まだ目処がたってないところがあるんだけど
それはあと1年くらいでなんとかする。
どうにもならないのが、風評なんです」
大きく、ため息をひとつ。
「海沿いも、漁業組合の建物から競り場まで、
建て替えが進んでて、あと2年でだいたい終わります。
整備が終わったとき、みんなが漁に行って、
魚を捕ってきて、いままでみたいに売れるかというと
残念ながらそんなことはないと思う。
いまも、相馬で捕ってきた魚を、
ぜんぶ線量測って、安全をたしかめたうえで
築地に持っていっても、売れないそうです。
福島県産の魚を店頭に出しても
みんなは買わないそうです。
これは、風評被害だと思う。
ここから、漁業が復活できるかどうか、
俺の力ではどうにもならない。
東京の市場性までは動かせない。
先々を読んで、いま、いちばんのストレスが
この風評被害の問題です。
それ以外は、がんばればできるっていう自信がある。
観光地がぜんぶ流されて復旧が難しくても、
代わりに観光客を呼ぶものを
つくろうと思ったらつくることができる。
交流人口も確保できる。そのための作戦も立てられる。
だけど、東京という消費地の人が、
相馬の魚をどういう目でみるか、というのは
俺にはどうしようもない。どうしようもない」
市長は、ほんとうに悔しそうにそうくり返します。
「そんなの原発が悪いんだ、国が悪いんだって
言ったってしょうがないよね。
言ったって、どうにもならない。
俺はね、言ってもしょうないことは
言わないようにしてる。しょうがないんだもの。
それ以外は、がんばればなんとかなる。
放射能による相馬市民の被害はひとりも出さない。
子どものPTSDもきちんとケアする。
学力も下げないし、交流人口も減らさない。
なんとかする。できる自信もある。
だけど‥‥東京の消費者の感性までは、
俺にはどうしようもできない」
市長の話を聞いて、
ときどき「ほぼ日」に出ていただいている
福島県の農家、藤田浩志さんのことをお伝えしました。
「安全です、というのはマイナスをゼロにするだけ。
そこからプラスを乗せていかなきゃ選んでもらえない」
藤田さんはそうおっしゃってました。
「そういうふうに思ってくれる人はいいんです。
たぶん、その人の農作物は売れると思う。
相馬にも佐藤徹広さんという方がいて、
その人のお米は国際的なコンテストで金賞をとった。
そしたらそのお米はあっという間に売れた。
だから、そういう人たちのつくったものが、
少しずつ、福島県のブランド力を
引っ張っていくということは、あると思う」
予定の取材時間が過ぎましたが、
やはり、楽観的な結論を出して
簡単に話をまとめることは、できませんでした。
最後の最後に、立谷市長は、
「ふつうがいいんだよ。ふつうが」と
噛みしめるようにおっしゃいました。
そして、もう一度、
「つまんないこと言ってるように思えるだろうけど」と。
「ふつうのことがいいんだよ」
もちろん、それはつまらないことなんかではなく、
東日本大震災のあと、東北に住む人に限らず、
日本中の多くの人が
痛感したことではなかったでしょうか。
2014-03-11-TUE