ほぼ日 |
翻訳家の方の談話を読むと、
「自分はいかに地味で、
いかにまじめな作業をやるのが好きか」
という話になったり、
「しゃべったりすると、
僕はつまんない人なんですよ」
と言う方が多いのですが、
黒原さんは、翻訳家として、
そういった発言を、どう感じますか? |
黒原 |
他の人はともかく、自分のことで言うと、
それは確かに当てはまりますね。
「地味な作業が好き」
っていうのは、ほんとうにそうです。
僕は、
「本と映画とタバコとコーヒーがあれば、
もう別に何もいらないなぁ」
と、そういう地味なタイプですから。
もともと、英語や外国語が得意で
翻訳の道に進むというのは、
地道に覚えたりすることができる人でしょう。
もちろん、翻訳家の中には
地味じゃない人もいらっしゃるけど、
僕なんかは、
日頃しゃべる時間が極端に少なくて、
たまにカラオケなんかやると
声が全然出なかったり。
閉じこもりがちというか、
おとなしくて、ほとんど一人でいます。
自動車の免許も持っていないし、
ギャンブルもあんまりやったことがないし、
スポーツにもほとんど興味がない。
外で飲み歩くこともめったにやらない。
学生時代から、
こもって一人で本を読んでいるという、
暗い性格なんですね。
こういう性格は、若い頃には
「ネクラ」とか言われて
ずいぶん迫害されたんです。
僕は七〇年代の後半に
田舎から東京に出てきたわけですけど、
ワーッと遊びまわって人を笑わせてとかね、
そういうのがいいという時代で。
内向的なものは、
総スカンを食っていた気がしますね。
暗いとか気持ちわるいとかヘンタイとか。
実際、われながら
「退屈な男だなぁ」と思うんですが、
ただ、こもって何かをやっていることが、
僕はすごく好きなんです。
自分にはそれが合っている。
翻訳の研鑽にしても、
翻訳者当人に会わなくてもできますよね。
原書を買ってきて、
その翻訳を買ってきて読めば、
「あぁ、こういう感じでやっているんだなぁ」
と。
ハードボイルドなら
ハードボイルドといった分野の、
優れた翻訳の仕事をしている先輩が
他にいるからこそ、
翻訳学校に通ったことのない、
師匠のいない僕にも始められたわけです。
どこまで忠実に訳すか、
どこまでアレンジしていいかという
さじ加減についても、他の翻訳家の仕事を
「この程度までは許されるんだなぁ」
というふうに見ています。
翻訳者のタイプには、
二通りあるかもしれません。
一つは、あるジャンルの小説が好きで、
これはもう王道ですよね。
ただ、僕のように、何となく
こういう作業が自分には合ってるな、
というふうに翻訳家になった人も、
そう少数派でもない気がします。
好きな小説のジャンルも答えられないのに
翻訳家になりたいなんて言うと、
叱る人もいるとは思いますが、
必ずしもそれが悪いわけではない。
「英語が好き」だけじゃどうかと思うけど、
「言葉をいじくるのが好き」とか、
「ジャンルはともかく小説が好き」とか。
そういうのがきっかけでも
かまわないんじゃないかと。 |
ほぼ日 |
翻訳家になるきっかけは、
どのようなものでしたか? |
黒原 |
僕は高校まで和歌山の田舎で育ちまして、
東京へ大学へ入るので来たんですけど、
最初は文学部のフランス文学科へ入りまして。
田舎に暮らしてると
文化的なものに憧れますから(笑)、
それでフランス文学科に入ったんです。
その当時は、ただ漠然と
「文化的な方面の仕事に付きたいなぁ」
と思っていました。
あるいはできれば大学に残って
研究者になれたらいいなと
思ってたんですけど、
田舎から何も知らない状態で
都会に出てくると、
いろんな刺激がワーッと来るわけですよ。
だいたい、高校時代にやっと
サルトル、カミュを
「発見」したばかりだったのに、
東京に出てくると、
実存主義はとっくに終わってて、
そのあとの構造主義とやらも、
初めて言葉を聞いた次の瞬間、
もう終わってると聞かされて、
「いまはデリダだ」とかなんとか、
都会っ子はいうわけです。
デリダってダリダ?の世界ですよね。
新しいものとかね、いろいろなものに、
あれやこれや齧ってるうちに、
何だかわけが分かんなくなってきて、
結局大学が終わりになっても
何やっていいんだか分かんない状態でした。
僕は、先生のところに話に行って
「どういうふうに論文書いたらいいですか」
とか、
「どういうふうにやったら
院に残れてどうなりますか」
みたいなことを聞けない
内気なタイプだったと
いうのもあるんですけど、
もう何やっていいんだか
分からないっていう……
それで、
「もう、文化的なことはダメかな」
というんで、
司法試験を受けることにしたんです。
「これからは地道に行こう」
と思ったんだけど、
この選択、ぜんぜん地道じゃないですよね。
あの試験、難しいんだもの。
なかなかうまくいかない。
仏文科を終えた後、学士入学で
別の大学の法学部へ
三年生から入り直したのですが、
とにかく司法試験には受からない。
で、三〇歳になっちゃった。
ガクゼンとしました。
「自分は、何もやらないまま、
三〇歳になっちゃったんだ」と。
七〇年代後半には、
「モラトリアム人間」
という言葉が流行りましたけど、
いやなことをいいあてる人がいるなと
思いましたよ。
三〇歳になっても受験生というのはちょっと、
というのがありまして、
司法試験はやめにして、
じゃあ、まあ、
予備校の先生でもしばらくやろうかなぁと。
もともと、最初の大学を出た時点で、
学習塾や受験予備校でバイトをして、
生活費くらいはまかなっていたから、
その延長線上ですね。
とりあえず、予備校の仕事をやるしかないし、
今さら就職って言ってもできないですから。
僕が予備校の先生を
おもしろそうにやっていないことが、
周囲に伝わったんだと思います。
友だちに雑誌の編集者がいて、
「翻訳をやったら?」と言ってくれました。
小説や映画はもちろん好きだったんで、
出版社を紹介してもらったんです。
『ミステリマガジン』という雑誌に
掲載する短編を、
試しに訳すという試験みたいなものがあって、
それをクリアしたら、次の短編を渡される。
そういうことをくりかえしているうちに、
「じゃあそろそろ単行本をやってみますか」
という、そんな感じで……。 |
ほぼ日 |
翻訳家としての訓練は、
どうやって重ねたのですか? |
黒原 |
そのテストがわりの翻訳をするまでは、
特別なことはしていなかったです。
もとは文学部出身だから、
大学の授業では
和訳の課題をやってましたけど。
もちろん、
商品になるような翻訳はできていなかったし、
おそらくどうしようもない、
意味さえわかればいいやみたいな
ものだったと思うんですけど、ただ、
司法試験の勉強をしている合間にも、
たまに英語の小説は読んでいたんです。
ある程度年をくっていたおかげで、
商品になる翻訳小説ってこんな感じだろうな、
というイメージがつかめたというか。
要するに、
原文でこういう言葉を使っているんだから、
その通り訳しただけ、というのはだめで、
日本語の小説として
成立してなくちゃだめだという。
きっとそういうことだろうと思って、
翻訳しはじめましたね。 |
ほぼ日 |
翻訳は、黒原さんにとって、
おもしろかったですか、
つまらなかったですか? |
黒原 |
おもしろかった。
大学に残って研究するとなったら、
誰もまだいってないことを
論文に書かなくちゃいけないけど、
そんな頭ないし。
それに比べると、翻訳というのは、
あたかも自分がその小説を書いているような
錯覚も味わえるし、調べものはあっても、
学者のそれとはちょっと違うでしょう?
だから、これはおもしろいや、ということで
続けさせていただいて、
予備校のほうをだんだん減らしていって、
それから何年か経ってから、
予備校をぜんぶ辞めちゃって翻訳だけ、
となったんですけど。 |
ほぼ日 |
予備校か翻訳かで、
迷いはありませんでしたか? |
黒原 |
予備校の講師も、フリーランスなので
そんなに安定したものでもないですよね。
ただ、翻訳っていうのは、
予備校講師に比べたら
それこそ見当もつかない世界ですから。
「だいじょうぶかな?」と迷いながら、
しばらく二股かけてやってたんです。
でも、僕は呑気なんでしょうかね。
結局は、翻訳を選びました。ただ、
「そのうち、翻訳ものなんて
誰も読まなくなる日が来るかもしれない」
とも思っていたんですよ。
これはあんまり根拠がなくて、
現に僕が翻訳を始めた頃は
アメリカの純文学なんかの
紹介がさかんだったし、
バブル末期だから今よりずっと
翻訳本は売れていたんですけどね。
不安なものだから、
つい最悪の事態を想像してしまって。
だからバブル崩壊後は、
某銀行がつぶれたといってはヒヤヒヤ、
某証券会社がつぶれたといっては
真っ暗な気分。
けっきょく、呑気なんだか
小心者なんだかよくわからないです。
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(つづきます) |