翻訳人。
つなげる仕事はおもしろい!

今回もひきつづき
翻訳者の黒原敏行さん
お話をうかがっています。

(右)
『おい、ブッシュ、世界を返せ!』
(アーティストハウス)
『おい、ブッシュ、
世界を返せ!』



「職業は勉強です」

ほぼ日 ミステリやエンターテインメントではなく、
純文学作品を翻訳していらっしゃいますが、
黒原さんは純文学を訳すときには、
どういうことを思っているのですか?
黒原 僕は学者じゃないので、
最初に話をいただいたときは
「いいのかなぁ?」とは思ったのですが、
すばらしい経験ができました。

おそらく、研究者に頼んでしまうと
いつになるかわからないということで、
僕のところに仕事がまわってきたのでしょうが、
僕もちょっと図々しいと言うか、
まぁいいか、と引き受けました。

『すべての美しい馬』という本を翻訳したときは、
六か月ぐらいかかったんですけどね。
とにかく、文章が独特なんです。
一つの文章が長くて、だいたい
「アンド」でつながっていくんですけど、
簡潔に切って訳してしまったら
文章がおかしくなってしまう。

表現もほとんど詩に近いような部分が
たくさんあって。それで、日本の作家だったら
誰が近いかなと考えて、文章の息が長いとなると
埴谷雄高の『死霊』かなとか、
中上健次の『千年の愉楽』は
ちょっと似てる気がしないでもないぞとか……。

最終的にはぜんぜん違うんですけど、
文体模写をやってみたりして。
大変だったけど、おもしろかったですね。

普通のエンターテインメントの小説っていうのは、
だいたい手持ちの感覚でわかる事柄を
表現しているわけですよね。
肉親を殺されて復讐心に燃えるとか、
恋人と気持ちがすれちがうとか。
そういうわかることを書いているんだけど、
たとえばコーマック・マッカーシーの
『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』
という三部作だと、いったいこの表現は
何をどう喩えているのか、とか、難解なんですね。

それで考えあぐねて、
作者に聞いたりもしましたが、
あの作家は事物のこと以外は
いっさい説明してくれないので弱りました。
でも考えているうちに、だんだん
作品の深みがわかってきて、たのしかったんです。

できあがった作品は、読点がないまま
つながっていくものだったりするので、
読む人は疲れるかもしれません。
人物の会話にカギカッコがなくて、
注意していないと
誰が何を言っているのか
わからなくなっちゃったりするんですけど、
それを我慢してじっくり読むと、
我々が知っている世界ではない世界が
見えてくるって言うか。


例えば、彼の作品世界は非常に運命論的なんです。
主人公たちは、自分の自由な意志で行動して、
苦しいところを乗り越えようとするけれども、
作品全体の空気から、
もう、宿命が決まっちゃっている。
そういう、不思議なものに動かされている、
というふうに話が進んでいくんです。
この三部作は、一見何か
とりとめもないような感じなんだけど、
まとめて読むと、そういう不思議な、
何かに突き動かされて人が生きてゆく物語でして。
とくに『越境』はラテンアメリカ文学の
幻想的なものに似ていて、お勧めですね。

ミステリのほうだと、
すごく印象に残っているのが、
『Mr.クイン』という作品。
これを最初に読んだときは興奮しましたねぇ。
すごい悪党の話なんです。
緻密な計画を立てて、
人に悪どいことをやらせるんです。
財産を奪ったり、人殺しも平気でやる。
いちいちふてぶてしく
「ぜんぶビジネスだから」
とか理屈を言うわけですよ。

悪の哲学を語りながら、
奥さんも子どももいるんだけど
若い女に手を出して、
そこからトラブルになっちゃうという
だらしないところもあって。
非常にユニークなキャラクターなんですよ。

これは、イギリスではミステリの
新人賞の候補にはなったんだけど、
賞自体はとらなかったような作品です。
だけど、日本ではけっこう売れたし、
その年の『このミステリーはすごい』で
二位になっていますから、
発掘できたという意味ではうれしかったんです。

これは北野武監督・主演で
映画にしてほしいなあと、翻訳しながら
密かに思ったものでした。
口のへらない、おねえちゃんに
弱い極悪人なんて、ぴったりじゃないですか。
ほぼ日 今回、アーティストハウスから出版して
とてもよく売れている最中の
『おい、ブッシュ、世界を返せ!』
を訳している間は、どんなことを思いましたか?
黒原 これの前に出た
『アホでマヌケなアメリカ白人』は、
アメリカでも日本でも
ベストセラーになりましたよね。
この本も、アメリカはもちろん、
イギリスでもほんとうによく売れているようです。

やっぱり、マイケル・ムーアは、
一見お笑い系という印象があるじゃないですか。
ところが、ちゃんと読んで、とりわけ
注釈なんかをくわしく見て翻訳していると、
「この人は、ジャーナリスト的な
 仕事の部分はきちんとしているなぁ。
 気をつけているな」
と思うんです。

ここまでつけるか、という注釈で、
基本的には非常にまじめな本ですね。
「ブッシュ政権とネオ・コンが結託して、
 好き放題にやって」という主張があって、
ブッシュを引きずりおろすための提案を
いろいろしているんですけど、
単にチャカしたり、
ふざけたりしているわけではないということは、
訳していて、改めて思いましたけど。

僕は、結果的にアメリカの作家のものを
翻訳することが多いのですが、だからと言って
アメリカ論を特に持っているわけではありません。
小説家は「アメリカを書くぞ」とか
そういうことを考えるよりは、
題材に従って書いていますから。
それを通して間接的に伝わってくる
アメリカしか知りません。

翻訳者の中には、
新しい情報をどんどん取り入れて、
自分がいいと思ったものを紹介していくという
タイプの人がいますよね。
それから純文学の方では、学者の方が、
自分の学問的な問題意識のあるところに
沿ってやる場合が多いでしょ?
僕なんかはそうではないです。
注文があればっていう感じなんで
全然、自分のテーマっていうのはない。
もちろん、こういう見方はおもしろいな、
つついてみたいな、
という程度のことは感じますけど。

たとえば、『コレクションズ』という作品は、
現代アメリカのものの考え方が
いかに人を自由にしつつ束縛するかを、
細かく細かく緻密に書いていて、
まあアメリカというのは憧れの対象でありながら、
同時に困った存在でもあるなというところが
よくわかる。そういうのを手がかりに
アメリカ論やアメリカ文学論をやるって道も
あるだろうけど、僕にはちょっと。
ほぼ日 ふだんは、どんなペースで仕事をされていますか?
黒原 いろいろですよ。
急がなきゃいけないものは
一か月くらいで仕上げたり。
そういうときは、徹夜を何度かします。
このトシになるときついんだけど(笑)。

シリーズものも、
しゃべりかたとかが決まっているぶん、
仕事は早くなる。
ただ、長いのや難しいのは
六か月ぐらいかかるものもあって。
六か月かけると一年に二冊になっちゃうから、
キツイと言えばキツイんですけどね。

もちろん、翻訳の途中には、
適当に他の本を読んだり映画を見たりもするので、
それだけに集中するということはないです。

翻訳の手順としては、まず最初は読む。
細かくは読まないでダーッと最後まで行く。
それで、だいたいどういう文章かなぁと探ります。
会話の部分で、日本人ならこんなタイプの人が
こんな感じでしゃべるところだな、
とわかると嬉しいですね。

その後、イチからはじめます。
途中わからないところは、印をつけて、
後で見直すことにして、
まず一通り訳してしまいます。
それがいちばんタイヘンなんですが、
それが終わると、あとから文章を直したり、
わからないところを調べたり、っていう感じ。
でも、これってふつうでしょうね。

たとえば、
『おい、ブッシュ、世界を返せ!』の場合は、
事実をまちがえたらいけないし、
いちいちインターネットで調べたから、
一日に四百字詰め原稿用紙で
二〇枚ちょっとだったと思います。
原書だと一〇ページぐらいかな。

最初の訳はけっこう雑で、
てにをはが合ってなかったりするし、
通じにくいところもあるから、
ぜったいに人に読まれたくないです。
あとでもっといい言いまわしに気づいたり、
思い違いを直したりする。
そういう感じで終わります。

仕事のペースは、
人それぞれだと思うんですけど、
基本的には朝ふつうに八時とかに起きて、
九時くらいから仕事をはじめて、
ずっとやるときには晩ごはんのときまでやって、
晩ごはんを食べて、そのあとまた
一時間か二時間ぐらいやって、
一二時過ぎぐらいに寝るっていうパターンですね。
夜型の人は、まったく
夜型でやっているみたいですけど。
だいたい、ずっと机に向かっています。
ほぼ日 「職業が勉強」みたいな感じなんですね。
黒原 そんなところがありますね。
いいですよ、そういうのって。
学生の延長みたいで、
自分がやるべきことだけやってればよくて。


いまは第二次大戦中の
スパイ小説をやってるんですけど、
ハンガリーとかチェコとかが出てきます。
中欧のことはよく知らないから、
そういう本を読んで、ハプスブルク帝国関係の本に
ハマリそうになったり、仕事と関係ないのに
マーラー聴いたり。
ところが次の本は時代がヴィクトリア朝だから、
こんどはディケンズやら
何やらを読むことになるわけで、
もう雑駁もいいところです。

昼間からサボっているときもありますよ。
例えば僕が住んでいる千葉だと
木曜日に男性割引デーという
珍しいサービスをやっている映画館があるから、
今日は朝から行こうとか。

休みはあんまり取れないですけどね。
人によるでしょうけど、
私なんかは自転車操業でやらないと、
というところで、一応、定休日はなしでやってます。
同業者の話を聞いても、
このへんはいろいろみたいです。

僕の場合は今のところ、日曜日もやってますね。
もっとも、何年か前には
まる二か月休んだことがあって、
さすがに子持ちホンヤク屋のやることじゃないと、
いまは反省してます。

  (次回は、また別の翻訳人が登場します!)

2004-01-22-THU

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