糸井 | さて、お集まりいただいたものの、 ‥‥なんのテーマもないんですが。 |
岩田 | (笑) |
梅田 | もとはといえば、岩田さんの発案で。 |
岩田 | そうですね。 糸井さんと梅田さんが 会ったことがないというので、 一度会っておいたほうがいいんじゃないですかと。 まぁ、それだけのことなんですよね。 |
糸井 | でも、きっと岩田さんのことですから、 「こんな話にでもなればいいな」 というビジョンは、あるんでしょう? |
岩田 | ないことはないです(笑)。 やっぱり、インターネットですかね。 あの、ぼくらは3人とも、 ふだんは別々の場所で別々の仕事をしている。 でも、ネットがあるおかげで 「世界のどこにいたって仕事はできる」 と思っていますよね。 |
糸井 | 「ネットがあるからどこでも仕事ができる」 っていう意味でいえば、たぶん、ここにいる3人は、 もっともその恩恵を享受している人たちでしょう。 |
梅田 | そうですね(笑)。 |
岩田 | そんな、生活や仕事に、インターネットが なくてはならないものになっている私たちが、 ネットと、これからの自分について、 話せたらいいんじゃないかなと思います。 |
糸井 | してみたいですね、そういう話を。 あの、最近、ぼくが感じているのは、 インターネットというのは、 「形のないものをやりとりしている」 ということなんですね。 たとえば近代までというのは 基本的には唯物史観の時代だったと思うんです。 つまり、形がないものは意味がないというか、 さわれないものに価値なんてないよ、と。 とくに労働時間なんかで 仕事を計っているような時代には、 形にならないものはカウントされない。 ある意味、形のないものが ないがしろにされている時代だったと思うんです。 |
梅田 | なるほど。 |
糸井 | いまでも、工業社会の名残で、 形のないものがないがしろにされる傾向は なくなってないと思うんですが、 その時代が長く続いた後、 インターネットの登場によって 「モノ、形がないものをやり取りする」 という時代が急にやってきてしまった。 かといって、モノや形がなくなったわけじゃなく、 昔の「見えてるもの」と、いまの「見えないもの」が ごっちゃになってるんですね。 そのふたつが混在して混沌をつくっているのが いまなんだという認識がぼくのなかにはあって。 「どっちかをないことにしちゃったらおしまいだぞ」 と思いながら、いまは、いろんなことを 整理している最中なんですけどね。 |
梅田 | いや、わかります。非常にわかります。 |
糸井 | うん、梅田さんの書いてらっしゃることも けっこう近いですよね。 そのふたつが混在しているところで みんなが混乱しているというか。 |
梅田 | ほんと、そう思いますね。 |
岩田 | あまりにも急激に、 場所とか、距離とか、物理的なスペースとか、 そういうものに対する制約が、 いっぺんになくなってしまったんですよね。 昔は、そういう制約があることを前提にして、 いろんなことが決まっていたのに、 その制約がなくなってしまうと、 便利は便利なのかもしれないですけど、 いったん、仕組みが間に合わなくなるわけですよね。 で、そこに、おもしろいものが生まれることもあるし、 この先どうなっちゃうんだろうという 不安も生まれてしまう。 |
糸井 | そのとおりですね。 |
梅田 | それについてはぼくもよく考えるんです。 とにかく、物理的な制約、空間的な制約というのは どんどんなくなっていく。 まったくなくなりはしないけれども、 考える傾向としては、なくなっていくんですね。 で、なくなった結果、 なにがポイントになるかというと、 ぼくは「時間」だと思ったんですね。 つまり、そこだけがまったく変わらないんです。 |
岩田 | 1日が24時間なのは変わらないし、 人が1秒のあいだにできることの量も そんなには変わらない。 |
梅田 | はい。 それから、どうがんばっても、 何時間かは寝なきゃいけない。 |
糸井 | それは肉体という言い方もできますね。 |
梅田 | そうです。だから肉体の限界というのは、 イコール「時間」ではないかと思うんです。 それは、寿命ということまでも含めて。 |
糸井 | なるほど。 |
梅田 | もっというと、物理的な制約は減り、 情報のボリュームと選択肢は増えていく。 そう考えると、けっきょく、 主体的に時間を使わない限り、 人生はすぐに終わってしまう。 ぐずぐずしているあいだに、 ザーッと終わってしまう。 だから、それをどうやったら、 意味のあるものにできるか。 「意味がある」というのは、 真面目な意味だけじゃなくてね、 楽しい、充実した、自分にとって 「いい時間」にすることができるか。 そういうことをずっと考えてますね。 |
糸井 | たぶん、そういう考え方は、 岩田さんも似てますね。 |
岩田 | たぶん似てます。というのは、 なにができるかということを考えたとき けっきょく最後は、時間で制約されているから。 たとえば、仕事について考えると、 これまでは、私が京都にいる場合は、 京都にいる人にしか会えなかったわけです。 だから、京都にいる人だけを思い浮かべながら 「誰と会えば、いい時間になるか?」って 考えていればよかったんですけど、 いまは、地球の裏側にいる人とも、 日常的にやり取りできるようになっちゃった。 ところが「時間」の制限は残っている。 つまり、誰とやり取りするかという選択肢は 以前よりも飛躍的に増えたけど、 何十人、何百人と、やり取りできるわけではない。 |
糸井 | そうですね。 |
岩田 | だとしたら、どの選択肢を選んだら、 あとで後悔しないで済むんだろう? って思うんですよね。 あの、後悔って、するに決まってますけど、 できることならしたくないというか、 「あのときああしておけばよかった」ということが、 ちょっとでも減ったらいいなと思ってるんです。 |
糸井 | それは、いわゆる、 「効率よく働きましょう」というような、 真面目な意味ばかりではないんだよね。 |
岩田 | そうじゃないです。 すごくくだらないことをぼんやり考える時間だって 絶対にムダじゃないですからね。 |
梅田 | むしろそういう「ムダっぽい時間」を 積極的に作るということのほうが、 最近は、難しくなっているというか。 |
糸井 | ああ、そうですね。 |
梅田 | 放っておくと「意味のあること」を ずっとやり続けてしまいますからね。 「いままでに意味があると言われていたこと」とか。 |
糸井 | なるほど、なるほど。 |
梅田 | だから、わざとそれをやらないようにするとか、 そういうふうにしないと、 自分にとっての「いい時間」を過ごすのは 難しいような気がします。 |
(続きます) |