第7回
高校時代、放送作家のアルバイト。
高校時代、放送作家のアルバイト。
石坂 |
昭和三七年になると、 芸名がついて セリフのある役になるんですけど、 収入的には、 高校時代や大学時代のアルバイトより、 はるかに、損だったんです。 研究費とか書籍費とか、 なにが書籍費なのか、わかんないんだけど、 アルバイトの頃は、つけてくれていたから。 |
糸井 |
野球の「栄養費」みたいなやつですね。 そもそも、高校の頃には、 なんでテレビに出るようになったんですか? |
石坂 |
高校の頃、演劇をやっていて…… 台本も書いていたし。 |
糸井 |
マセてたんだ……。 |
石坂 |
映画スターは、 テレビには出ちゃいけなかったんだけど、 不思議なことに、 ラジオには出てよかったんです。 ラジオがあちこちできはじめて、 それから星由里子が出てすぐの頃とか、 大空眞弓がいる頃だとかに、 ラジオで放送作家をやったんです。 とにかく東京で作った ラジオ番組のテープを複製して、 地方の放送局に売るものでして。 放送作家といっても 俳優たちのアドリブが一切なくて、 一字一句書くんだよ? マネージャーに 「うちは『ですわ』なんて絶対言わない! 台本に忠実なんですから、 しっかり書いてもらわなきゃ困るよ、キミ!」 って怒られたんだもん。 そんなの自分で変えてよと思ったんですけど。 当時は人がいなかったから、 高校生でラジオドラマを書けといわれて…… 睡眠薬中毒のお姉さんの話を 四十五分番組で書いたんです。 その頃は、忙しかったですね。 部活として演劇部をやっていて、 劇団を作っていて、 人が作った劇団に客演もしたり、 ラジオの台本を書いたり……。 稽古をかけもちすると、 電車賃がたいへんだから、 都立大学から渋谷ぐらいまでなら 歩いたりしていましたよね。 ラジオに出入りするようになったのは、 劇団の中にお姉さんが 女優だった人がいたからです。 その女優がTBSの偉い人と結婚して コネができました。 「弟が劇団をやってるから、 通行人で使ってくれ」 と売りこんでくれたんです。 それで、行くようになって…… だけど劇団なんとかの会という 通行人の組織とうちの劇団は 競いあうようになったんです。 だからその通行人の組織は、 すごいイヤな目で見るわけ。 |
糸井 |
その時代の通行人というのは、 誰でもできる仕事なんですか? |
石坂 |
ちょっとやればできました。 慣れないと、むずかしかったですね。 |
糸井 |
やっぱり、むずかしいんですか? |
石坂 |
難しいです。 ひとつのシーンから 次のシーンに行くのがものすごくたいへんで、 ぼくはそれこそほんとうに カメラマンに何度も 「邪魔だ!」と投げ飛ばされました。 カメラから水道管のように 太いケーブルが出ていて…… 助手は手袋をはめてケーブルを持つ。 親分と助手がカメラを持って グッと移動する軌道に入ってしまうと 「邪魔だ」と払われて、 通行人たちの体は宙に浮いちゃうんです。 それをすりぬけるのがむずかしくて、 どうやって次のシーンにまで行くのかを、 リハーサルの間に、つかんでおいたわけ。 |
2015-05-05-TUE
タイトル
テレビという神の幼年期。
対談者名 石坂浩二、糸井重里
対談収録日 2004年12月
テレビという神の幼年期。
対談者名 石坂浩二、糸井重里
対談収録日 2004年12月
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