世の中には大きく2つのことが共存しています。
どのような地域の人々にも共通なこと、
そして歴史や文化の違いから生じる地域ごとの差異、です。
前回でも触れた情報のガラス張りという方針は、
どこの地域でも求められます。
しかし伝え方はさまざまです。
信頼関係の作り方を話した
アレッサンドロ・ビアモンティさんは、
ガラス張りをどうデザインするかを課題にあげました。
デザインとは今やブランド力を強めるだけでなく、
商品の短所をも含めた情報を伝えるのが
使命になってきています。
弱みを隠すのではなく、示すことで受け手に
全体像を知ってもらうことが重視されているのです。
「チョコレートだって食べ過ぎはよくない。
1日の適切な量というものもある。
かといって、タバコのパッケージのように
『生命に危険だ』と大きく書けばどんどん売ってもよい、
というものでもない」とビアモンティさん。
タバコのパッケージの例は、
危険性を表示するのは
メーカーの責任回避のためだけなのか、
との感想を一般に抱かせるいびつな事例です。
表示のあり方が再検討されないといけないはずですが、
そうはなっていない。
つまりガラス張りの情報提示の手法は、
まだ成熟していないのです。
食の安全を考えるにあたり、
タバコのパッケージは反面教師になります。
初回で紹介したイタリア国営放送のビデオ
「福島の食、個人的な問題?」を制作した長澤愛さんは、「Fukushima Food Safety Conference」での
福島高校生や早野さんへのインタビューを
中心に構成したビデオを、ふたたび作りました。
イタリア国営放送のミラノ万博サイトで見ることができます。
頭で理解すること、
福島の食品を前に一瞬ひるんでしまう心、
この迷いを
「福島からの食 アタマ・心」
とのタイトルで表現しています。
早野さんは、
データをインターネットにアップしておくだけでなく、
伝えるべき相手のことを理解し、
リアルな人との関係で伝えていくことが大事、
と話しています。
それでは伝えるべき相手の何を理解すればよいのでしょう?
どうしてリアルであることが大事なのでしょうか?
一般消費者は食品の表示に無関心です。
いくら食安全の専門家が
「産地名ではなく検査値」と強調しても、
その声は一般消費者に届かず、
俎上に載った産地名の商品をとりあえず買い控える。
そしてなんとなく不安な気持ちだけを抱いている。
そういう心の状態を知るのも理解の一つです。
また「日本ファンなら福島の食品、いけるよね!」と、
科学的データなしに心に訴えかけるのは、
評価を下げるだけです。
かといって、ロジックだけでも
人は決断するものでもありません。
ロジックと心の両輪をもって、
ヤクスさんが指摘する
「(信頼できる)いとこのトンマーゾの話なら傾聴する」
ケースは大きく広がります。
リアルが大事にされるゆえんです。
「聖書ってずいぶん長い間イタリア語訳、
なかったんですよね。
ラテン語の聖書しか許されなかったのです」と、
イタリア国営放送の長澤愛さんは話します。
プロテスタントの国は
早いうちから各国語での聖書が普及しました。
が、カトリックの強いイタリアでは、
19世紀に国が統一されてから
やっとイタリア語聖書が認められたのです。
カトリックは民衆の反乱の原因になる
疑問を抱かせてはいけないと考え、
民衆がすぐ読めるイタリア語の聖書を禁じていたのです。
今でもイタリアの人が権力に対して
疑い深い要因の一つかもしれません。
メッセージの伝え方のローカライズは、
このような背景を考慮することです。
今年の3月11日、東京の和食屋さんで
アレッサンドロ・ビアモンティさんと
酒を飲みながら話し合いました。
食の安全に関する討議をどう進めていけばよいか、
誰にどう語りかけるのが良いのか?
との議論のなかで、
以下のざっくりした数字で仮説をたててみました。
全体の25%の人はあらゆる情報を熱心にチェックし、
世の風潮に巻き込まれず、
自らの判断で食品を選択する
「意識が高い」と称される人たちです。
食品の表示が何を意味しているのかを知っています。
この人たちをグループ1とします。
グループ2はメディアから垂れ流される
扇動的情報をそのまま鵜呑みにしやすい。
食品表示の読み方もメディアの解釈に従います。
肯定であれ否定であれ、極端な方向に振れやすい。
ここにも25%の人がいるだろう、と考えました。
最後のグループ3は情報にさほど敏感ではなく、
浮動票のような存在です。
食品の表示に関心をもっておらず、
YESともNOともはっきりしない態度をとります。
このグループ3を50%とします。
8回目のパリアリーニさんの提案した
ジャーナリストへの教育は、
グループ2への適切な情報提供を促す、と考えられます。
ビアモンティさんは、
「グループ3が
グループ2に振り回されない
土壌をつくるのが大事」との意見でした。
どこの民主主義の国においても、
グループ毎の比率はおよそ同じだと思うのですが、
特にグループ3、つまり無関心層にこそ
地域の文化が反映されています。
ですから、この人たちの考え方や心の動き方をよく把握し、
それに沿った伝え方を編み出すことです。
この連載で問うてきた大きなテーマは、
『知ろうとすること。』の冒頭で
糸井さんが早野さんに提起した、
「刃物をつけた振り子の先に立てるか」です。
つまりは検査をパスした食品なら
まったく問題なく口にできるか、です。
ぼくは昨年の秋から東北食材を
ヨーロッパに紹介する活動をはじめ、
今回のカンファレンスの企画に携わりました。
そしてこうして関係者へのインタビューを終えた今、
心から強く思います。
頭での理解と心で思うことの間にある迷いは、
個人のレベルで深く考え、
個人の心のレベルで自問するしかない。
と同時に、
個人の嗜好の問題で終わってはいけない、
ということです。
これは、
「みんなが意識の高いグループ1になろうよ」
と呼びかけているのではありません。
みんなが平穏な気持ちで生きられる社会をどう作るか、
ということなのです。
それにはどのグループに属していようが、
「考える傍観者」としての視点を常にもつことです。
圧倒的多数は当事者になりえないのだ、
との認識を忘れてはいけません。
当事者意識をもつことが最終目標ではない。
いかによき傍観者になれるか、です。
この連載のためにインタビューをおこない、
後半の原稿を書いている11月13日、
パリで同時多発テロ事件がおきました。
イタリア周辺国における原発テロの可能性を巡る論議も
現実味を帯びてきています。
事故だけでなくテロによって生じるかもしれない
最悪の事態を想定するとき、
イタリアの人たちにとって「FUKUSHIMA」の問題は、
遠い問題から近い問題に変わるかもしれない、
ということも考えないわけにいかなくなりました。
残念ながら。
(安西洋之さんのコラムはこれで終わりです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました)
2015-12-08-TUE