profile

December
二月のテーマは 黒

私が育った京都の家の向かいには、
誕生日が数ヶ月しか違わない男の子が住んでいた。
幼い頃からしょっちゅう互いの家を行き来して遊んだ
いわゆる幼馴染みである。

彼の両親は、近所でも仲のいい夫婦で知られていた。
お母さんはよく喋る、冗談好きの面白いひと。
お父さんは温厚な人柄で、いま記憶をたどっても
目を細めてにこにこしている優しい顔しか思い出せない。

夏休みになると、男の子はきまって家族で
お父さんの郷里の山へ行くのだと言ってしばらく留守にした。
戻ってくると、小川で獲ったという沢蟹を見せてくれる。
私は、その小さな甲羅を触らせてもらうのが好きだった。

中学生になると、私たちはもう一緒に遊ぶことはなくなったが
霜がおりる冬の朝は、近所の駐車場でその子のお父さんが
出勤につかう自分の車のフロントガラスに
やかんでゆっくり湯をかけているところによく遭遇した。

湯気を立ちのぼらせながら、おじさんは制服姿の私に気づくと
「アヤちゃん、おはよう。いってらっしゃい」
と笑顔で必ず声をかけてくれた。
こちらはぺこりとお辞儀をして、通学路を急ぐ。
何気ないことだが、そうやって送り出してもらうのが
私は嬉しかったのだろう。とても、鮮明に覚えている。

おじさんが不慮の事故で亡くなったと
数年前に日本にいる母から電話で告げられたときは、
胃のあたりがぎゅっとした。
おじさんは、郷里の山で木々の手入れをしているときに
運悪く倒れてきた木の下敷きになって、病院に搬送されたが
助からなかったとのことだった。

突然すぎて、その出来事が現実味を帯びて
私の心の中に落ち着くまで時間がかかった。
おじさんは健康で、まだ60代だったのだ。
私ですらこんなにもショックなのに、
おばさんや幼馴染みの気持ちを想像すると
どうしようもなく、いたたまれなかった。

数ヶ月後、私は実家に帰省した折に、お焼香をあげに行った。
仏間に白い胡蝶蘭や百合が所狭しと飾られていて、
それは、事故からまだ日が浅いことを痛々しく伝えていた。

おばさんはお盆にお茶を乗せて持ってくると、そばに座って言った。
「おじちゃんが事故にあったとき、夫婦ふたりでいたんよ。
おばちゃんな、『すぐ助けを呼んでくるからな!』って
おじちゃんに言うて、転がるように山を駆けおりて
人を呼びに行ったけど、あかんかった。
心の中で、死なんといて、死なんといて、って叫んだけど
間に合わへんかった…」

私はうつむいた。
頭の中が墨で塗りつぶされたように、ひとつも言葉が出てこなかった。

「うちの留守番電話にな、
おじちゃんが吹き込んだ声が残ってるんやけど
それが、どうしても消せへんくってな。どうしたらいいやろね」

夫を亡くした経験のない私が何と答えても、
軽く聞こえてしまう気がした。
目の前にいるおばさんの思いが私の中に少し流れ込んできただけで
正座していた膝の上に、涙がぽたぽたと落ちた。

遺影の中のおじさんは、いつもとおなじ、優しい笑顔だった。

****************************************************************************

イギリスには、黒いジュエリーが大量に作られた時代がある。
それはヴィクトリア女王が、1861年の夫アルバートの死後、
長いあいだ喪に服していたからだ。

政略結婚だったとはいえ
アルバートの穏やかな性格と聡明さにヴィクトリアは信頼を寄せ、
仲睦まじい夫婦だったと言われている。
イギリスの繁栄に奮闘するヴィクトリアを、アルバートは支え、
ふたりは9人の子どもに恵まれた。
アルバートがいなくなった後のヴィクトリアの喪失感は
彼女自身が亡くなる1901年までの40年間、
黒いジュエリーと黒いドレスに身を包んだその姿に表れている。

女王が、いつ公の場に現れても喪に服した恰好でいる様は
国じゅうの人々に強烈な印象を与え、
皮肉にもファッションにおいて「黒」の大流行をもたらした。

私は、こうしたアンティーク・ジュエリーを見るたびに考える。
例え高価な宝石があしらわれた
一見きらびやかに見えるジュエリーでも、
ときに、その品が作られた元の経緯は
現代に生きる自分と決して無縁の出来事ではない、ということ。

日本で育った私がイギリスの古いジュエリーの由来に
しばしば共感することがあるのは、きっと
人種や時代をこえても変わらない人間の感情に、
ジュエリーを通して触れる瞬間があるからなのだと思う。

(つづきます)

 
2014-02-24-MON

 

まえへ このコンテンツのトップへ つぎへ

感想をおくる
「ほぼ日」ホームへ
ツイートする facebookでシェアする
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN