カレーライスの正体
第1回
〜プロローグ〜日本のカレーはなぜこんなにも魅力的なのか
2017.2.5 更新
# 2013年9月8日午前5時

 2013年9月8日の早朝5時前、僕はテレビを置いた自宅の一番せまい部屋で独り、画面をなんとなく眺めていた。この時間、おそらく日本全国で多くの日本人がかたずをのんでテレビにかじりついていたはずだ。2020年オリンピックの開催都市がまもなく決まるのだ。僕が少し冷めた気持ちでいたのは、オリンピック自体にそれほど強い思い入れがなかったからだ。東京でオリンピックが開催されようとされまいと、2020年の自分の生活にたいした影響はないだろうと思っていた。普段、都内を自転車移動しているから、街中を自転車で走りにくくなるのは嫌だなぁ、くらいのことだった。とはいえ、日本じゅうが注目しているこの瞬間に自分もテレビの前にいるということは、行く末が気になってたのだろう。

 発表の瞬間が刻々と近づいてくると、そんな僕でも心臓の鼓動が高まるのがわかった。なぜかドキドキしてきた。午前5時過ぎ、現地、国際オリンピック委員会総会が開かれているブエノスアイレスの会場には、東京のほか、候補地となっているマドリード、イスタンブールの関係者が列席している。中央のステージで、ジャック・ロゲ会長が軽く挨拶をする。テレビでは同時通訳が流れていたが、僕の目は、彼が手にしている封筒を見つめていた。封筒が開かれ、ジャック・ロゲ会長が中に入ったボードを取り出してくるっと裏返すと同時に「TOKYO」と言った。会場の日本人関係者がドッと沸き、感極まってお互いに抱き合い、涙を流して喜びを分かち合う映像が流れた。ほんの数分もなかっただろうか。僕も「TOKYO」の直後に「おおお!」と小さく歓声をあげたものの、すぐに静かになった。

 しばらくして、突然、たとえようのない焦燥感が体中を駆け巡った。7年後の2020年、世界中の人々が東京にやってくる。そこにカレーはあるのか。そりゃ、あるだろう。だとしたら、日本のカレーはそのときどんな姿をしていて、彼らの目にはどう映るんだろうか。そして、僕はそのとき、カレーとどう関わっていられるのだろうか。やばい、やばい。このままではいけない。僕は海外の人に日本のカレー文化の魅力をもっともっと伝えたい。伝えていかなくちゃいけない。もう時間はあまりないんだ。僕がやらないで誰がやるんだ、と心の底から思った。そんなことはどこかの誰かがやってくれるだろう、なんて冷めた気持ちは持てなかった。じっとしていられなくなったが、東京の早朝5時に外へ飛び出しても何もすることはない。テレビはまだ歓喜を繰り返し伝えている。その朝、僕は日本のカレーの将来についてグルグルと頭の中を巡らせながら眠りについた。

# カレーライスは日本の国民食である

 カレーは日本が世界に誇る食文化である。それは、歌舞伎のような伝統芸能やアニメのようなサブカルチャーに引けを取らないレベルだと思う。問題はそのポテンシャルにほとんどの人が気づいていない点である。日本のカレーがどれほどすごいのかを自覚していない日本人は多い。灯台下暗しという言葉があるくらいだから、たとえ日本人が知らなくても、カレーは海外からやってくる外国人の足元を照らし出すかもしれない。光り輝けばその魅力を伝えることはできるだろう。カレーはインドで生まれ、イギリスを経由して140年ほど前に日本にやってきた。日本で生まれた“カレーライス”は独自の進化を遂げ、世界に類を見ない食べ物になった。世界中にカレーと呼ばれる料理やカレーに似た料理は存在するが、国民食として愛され、自由自在に変化してバラエティ豊かに成長している例はほかにない。高級ホテルのレストランから街場の食堂までメニューに名を連ね、家庭の味があり、学校給食の人気メニューとなる。キャンプに行けばカレーを作り、全国各地では特産品を使ったご当地カレーが町おこしの一助となっている。“カレー味”なる概念が生まれ、コンビニではカップラーメンも焼きそば弁当もスナック菓子もカレー風味に染まっている。僕はこの17年間で40冊以上のカレー本を出版してきたが、おそらくラーメンの世界に過去40冊の書籍を出版したことのある人はいないはずだ。仮に僕が日本以外の国籍で海外で生まれ育っていたら、これだけの頻度でカレーの本を出版することはあり得なかったと断言できる。そんな切り口からも、日本のカレーが特別な存在であることが垣間見える。

 カレーの魅力はどこにあるのか。もちろん、おいしいというのは前提にある。日本人だけでなく、世界中の人が食べておいしいと思う料理である。以前、NHKの人気番組「ためしてガッテン!」でカレーを特集したときに、番組制作・出演に協力させていただいた。市販のカレールウで作ったカレーを何人ものインド人に食べてもらったことがあるが、誰もが口をそろえて「これはおいしいカレーだ」と感想を述べている。インド人もビックリするおいしさなのである。ただ、味わい以上に可能性を感じていることがある。それはスタイルの斬新さである。「平皿にライスとカレーが半々に盛り分けられているだけの料理のどこに斬新さがあるんだ!?」と思う人がいるかもしれない。ところがこのシンプルなスタイルにこそ価値がある。左半分に白いライス、右半分に茶色いカレーソースその境界線の奥に真っ赤な福神漬け。小学生でも絵に描けるキャッチ―さ。さらにこのカレーライスの上に鶏の唐揚げが乗れば唐揚げカレー、ゆで卵をトッピングすれば卵カレー、チーズを振りかければチーズカレー、と自在に姿を変える。カリッと揚がったトンカツがどんと乗ればカツカレーになる。想像しただけで食べたくてたまらなくなる。

# サンドイッチ、ピザ、ラーメン……カレー!

 いま、ラーメンはカレーに先んじて外国人に大人気となっている食べ物である。海外のアーティストやミュージシャンを日本に招致し、アテンドする仕事をしている友人の話によれば、来日する外国人アーティストのほとんどが、「日本に行ったらラーメンを食べたい」と言うのだそうだ。おかげで彼女は普段ほとんど食べることのないラーメン屋の情報にかなり詳しくなったという。パリやロンドンではずいぶん前からラーメンがブームだし、最近では日本の人気ラーメン店「一風堂」がパリ、ロンドンに出店して話題になった。日本のラーメンについて研究し、書籍を出版したケンブリッジ大学のバラク・クシュナー准教授は、ラーメンが世界中で愛される理由を「プラットフォーム・フードだからだ」と表現している。プラットフォーム・フードとは歴史学者などによって使われていた言葉で、ある一定の様式を持った料理のことを言う。たとえば、寿司は、シャリの上に具が乗っている。サンドイッチは2枚のパンの間に具が挟まれている。ピザは丸くのばした生地の上に具が乗ってオーブンで焼かれている。世界中の人が各国の食文化の壁を越えてそれと認識できる様式を持っている料理をプラットフォーム・フードという。そして、プラットフォーム・フードには世界で受け入れられる重要な共通点がある。それは、食べる人の好みで自由にカスタマイズできることだ。生魚が苦手な人はシャリの上にベーコンを乗せればいい。2枚のパンに挟むものや丸い生地の上におくものは、好きなものでいい。スープに麺が入っている様式のラーメンは、それをプラットフォームにして、チャーシュー、卵、メンマ、ノリ……など様々なものを乗せることで食べ手がカスタマイズすることができるのだ。様式のわかりやすさとカスタマイズのしやすさが世界で受ける要素だということらしい。だとするならば、カレーライスは日本を代表するプラットフォーム・フードのひとつじゃないか!

 僕はかつて、日本最大のカレーチェーン店「ココイチ」で、全トッピングというのをやったことがある。1人前のカレーライスと同時にその店のメニューにあるトッピングをすべて注文したのだ(ちなみに後にココイチを取材した際、僕と同じような行動に出る客が毎年、一定数出現するという話も聞いた)。当然、ひと皿に盛り切れなかったトッピングの数々は、それ専用の皿(本来そんなものはないのだけれど)に数枚にわけて盛り付けられ、僕の目の前に現れた。僕はそこから食べたいものをつまみ食いして食事を終え、残った大半のトッピングをテイクアウトして持ち帰った。レシートは何十センチもの長さになり、金額は8000円を越えた。これだけのバラエティが、いや、もっと多彩な無限のバラエティがカレーライスというプラットフォーム上で楽しめる。ラーメンや寿司のシャリに乗せたらおかしいものでもカレーライスの上にはおさまったりするのだ。こんな自由な料理が他にあるだろうか。外国人はまだ知らないだけである。知ったらその反響はとんでもないことになるはずだ。

# 世界はカツカレーの魅力に気づき始めている

 微かな可能性をすでに感じ取ってはいる。先述のココイチは、すでに上海やバンコクでかなりの人気を博している。高価格帯のカレー店だが、デートスポットのような利用のされ方となっているそうだ。そのココイチは、今年、ロンドンへの出店を発表した。その後、なんとインドへの進出も計画しているという。そのロンドンでは、韓国系や中国系の日本食チェーン店が大人気。もちろんカレーライスは定番メニューである。高級スーパー(たしかウェイトローズだったか)へ足を運んだとき、驚きの商品を目にした。お洒落にデザインされた透明のパッケージにはこんな商品名が書かれている。「KATSU CURRY」。わが目を疑ったのを思い出す。買って中を見てみるとカレーを作るスパイスのほかにとんかつを揚げるためのパン粉が入っているのだ。ロンドンでは家庭でもカツカレーが人気だというのか。

 アメリカに住む友人が教えてくれたのは、サンフランシスコで人気の移動販売カレー店である。IT企業が集まるビジネスエリアにランチタイムに出没するその店の人気メニューはカツカレー。Facebook社をはじめ、名だたるIT企業の若い戦士たちがカツカレーに群がっている姿を見られるという。

 イギリス人やアメリカ人だけではない。日本に住むインド人は、ココイチに行くとカツカレーを食べる人が多いと聞いたことがある。もちろん、豚肉を食べないムスリムは例外だが……。カレーライスは日本を代表するプラットフォーム・フードである。そして、その象徴的な存在がカツカレーだ。だとするならば、カツカレーが世界中の人々を虜にする未来が近いうちに訪れるんじゃないだろうか。カツカレーを入口にして日本のカレーの奥深く幅広い世界の魅力を知る人が激増するかもしれない。その昔、世界中の人がビートルズを入口にロックンロールにハマっていったように。カツカレーはビートルズである、だなんて言ったら今は誰もがキョトンとするだろう。でも僕はキラキラと光り輝くダイヤモンドの原石を見つけてしまったのだ。そして、いま、無性にカレー店を開きたくなっている。カツカレーが抜群にうまい店を……。

 カツカレーのことばかりを延々と語り続けるつもりはないが、せっかくの機会だから、日本のカレーの知られざる魅力を存分に綴ってみたいと思う。

……つづく。
2017-02-05-SUN