岩井 |
ひょっとすると観客の人って
誤解してるかもしれないと思うんです。
映画って、だいたい2時間くらいでしょう?
ところが、映画は、
もっと時間をかけて撮られていて
いろんなことを検証する余地は
いくらでもあるわけですよ。
だから、ぶっつけ本番のスポーツとは違って、
やり直しがきくんです。
あたりまえのようなことだけど、
自分の中で、ここは合格点だ、というのを
とことん見出しながら撮っていく。 |
糸井 |
答えになるまでやってある、
ということですね。 |
岩井 |
ええ。じゃあ、その自分の合格点が
何なのかというと、もうそれは
自分が見ておもしろいか、
おもしろくないかということで。 |
糸井 |
さっき話に出てきた、
他人から判断されることをやめた、
ということだね。 |
岩井 |
しかも、その判断基準は、
「何が言いたかったか」とかじゃなくて、
自分が見て「快感を感じるかどうか」だけ
なんですよ。
どんなお話であっても、そうなんです。
映画の「2時間」という体感の中で、
撮っていて現場でためらうものは
やっぱり何かの理由でだめなんですよ。
「外になんか出せるものじゃない、これ」
ということになる。 |
糸井 |
素材としては、
自分でボツにしたやつが山ほどある? |
岩井 |
そうですね。
あるシーンがうまくいかなかったせいで、
編集の段階で、話をぜんぶ
変えちゃおうと思ったこともある。 |
糸井 |
編集の時間が、ずいぶん長いらしいですね。 |
岩井 |
はい(笑)。
撮影中に計算しきれなかったという、
失敗でもあるんですけど、
でも、背に腹はかえられんというか、
ここまできたら、ちょっと2カットだけ
直しちゃおう、というような。
そういうこともやって、自分の中で
「これでもういいだろう」
というものが出てくる。
上映を観た人たちから感想を聞いたときには
「あ、そう・・・そんな話だったよな」
というぐらいの、
遠い話を聞かされているような
かんじもするんです。 |
糸井 |
へぇぇ。 |
岩井 |
「どんな話かすっかり忘れてたぜ」
というぐらいになってるんです。
だから、制作の後半戦はほとんど料理に近い。
味見て、うまいとかまずいとか言ってる。 |
糸井 |
「これで終わり」という、
どこでやめるかが、難しいですよね。
ただ、映画は他人が絡んでいるから、
もう一度1000人集めて撮り直すのは
無理だとか、そういうことがありますよね。 |
岩井 |
ええ。 |
糸井 |
でも、特にデジタルのゲームを
つくってる人なんかは、
「ドツボ」にはまっちゃうんだけど、
いくらでもやり直しができちゃうんですよ。
なおかつ、つくってるあいだに
ハードウエアが進歩しちゃうと、
今だったらもっとこうできるんだ、
とかを考え出すんです。
そうすると、
一からやり直したくなったりとか(笑)。
「やめかた」というものについて、
ものすごくみんな、たいへんに
なっているんです。 |
岩井 |
そうですね、
それはすごくわかりますね。 |
糸井 |
絵を描く人だったら、個人の判断で、
「わかった、やめだ」といえばいい。
でも「おれはやめたくない」とか、
「あそこ、直したい」というやつが
人間としていたときには、しんどいですよね。 |
岩井 |
そうやって直しても、
百点満点が出るわけじゃなくて、
「まあ、よしとするか」
ということもあります。
「ここをもうちょっと、ここをもうちょっと」
と思っていたところは、あとで見ても
「あ、ここ」と、残りますね、どうしても。
最後のほうは、仕上げ切るということを
永遠にやってるんですけど、
もう、このまま仕上がらないほうが
いいんじゃないかと思ったり。
「十分に楽しんだから、もういいや」
みたいなかんじで終わるんだろうか(笑)。 |
糸井 |
何のために完成させるんだ!
そういう、欲望のような感覚は
あるだろうね。 |
岩井 |
映画って、中途半端なんですよ、
2時間というサイズが。
4時間とか1時間とかのほうが
まだすっきりくるんです。
中途半端なんですよね。
どうしてその枠に
着地させなきゃいけないかがわからない。
1時間ぐらいがほんとはいちばん、
エッジのきいたものに
なったりするんですけど、
1時間だと周りが許してくれないしな。 |
糸井 |
本にしても、人はきっと
1ページぶんくらいしか、
覚えていないんだよね。
だけど、あのくらいの厚さというのを
商品として認めているから、
商品としての単行本にあの厚さは必要だけど、
本の本来の意味って、
もしかしたら「ある1行」かもしれない。 |
岩井 |
そうですね。
1時間ものの映画にみんながお金を払って、
それかひとつのベースになっていけば
いいのかもしれません。 |
糸井 |
プラモデルがついているお菓子が
売られていますよね。
あめが1個入ってるだけなのに「お菓子」。
制作した側は、プラモデルをつくった、と
思っていても、あめという商品の形は
守っている。
ああいうことを
くり返しているうちに、様式というのは
おそらく変わってくるんだと思うんです。 |