第3回
■子供の目、大人の目 |
糸井 |
生き物と直に接するということは、
“生命”を感じることですよね。
これは、ただ見ているだけでは実感できない。
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杉浦 |
こいつも、めし食ったり、寝たりして、
生きてるんだってね。
僕が小さい頃、トンボ捕りをする子どもの憧れは
ギンヤンマかオニヤンマでした。
ところが、ひと夏に一匹か二匹しか捕れない。
それで腹いせに、
簡単に捕れるシオカラトンボの羽をちょん切ったり、
尻尾を切ってワラを突っ込んだりとか、
そんなことばかりして遊んでました。
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糸井 |
僕もやりました。
ワラで重りをちょうどいい具合につけると、
そのままどこまでも飛んでいくのが面白くて。
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杉浦 |
ところがあるとき、
羽を切って飛ばしたシオカラトンボが
短くなった羽で必死に飛んでる姿を見ていたら、
すごくかわいそうになってね。
「あいつ、死んじゃうのかな」って。
それできっぱりやめました。
悪い遊びなんだけど、このとき生き物の命とか、
命あるものへのいたわり、というものを意識しましね。
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糸井 |
「ほら、いつくしみなさい」って
観念用語で言われるより、
羽を切られたトンボからのほうが、
よほど、「かわいそう」とか「いつくしむ」
ということの意味を教えられます。
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杉浦 |
たとえば花の美しさを、
大人は「ほら、きれいでしょ」と言いますね。
そうすると子どもは、「そうかな?」と感じても、
きれいと言うから、
きれいなんだって思わせられちゃう。
でも、「きれい」なんて抽象的な言葉を
子どもに言ったってわからない。
それより、お母さんが
うっとりして花を眺めている目線を見て、
子どもは自分で気づいたりする。
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糸井 |
忙しいというのも、ひとつにはあるでしょうね。
お母さんにうっとり花を見てる余裕がないから、
「ほら見なさい。はい、きれい」
で簡単にすませてしまう。
でも感じるためには、
具体的な体験こそが、必要なんですね。
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杉浦 |
子どもに生き物と接することを教えようというので、
今、ニワトリを飼うのはどこの
学校でもやっていますね。
でも、これも難しい問題がある。
指導する先生方が飼い方を知らないですから。
上野公園のこども動物園には
白色レグホンがいましてね。
黄色い制服を着た
シルバーガイドのおじさんたちが、
オンドリのカッとした姿より、
メンドリのちょこちょこした姿が可愛いものだから、
「よしよし」といって、よく餌をやるんですよ。
そしたらオンドリは制服をちゃんと覚えていて、
黄色い服を着た人たちがいると、
バーッと追いかけるんです。
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石川 |
言うならば、おれの女に手を出した、
ということですね。
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杉浦 |
群れになるとオンドリがメンドリを守ろうとする。
だから学校でも、餌をやろうとする子どもに
ニワトリが噛みついたりするんです。
こういう性質があるから、
こんなことに気をつけて世話をしなさい
と教えられる先生は少ないです。
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石川 |
みんな知らないですね。
近ごろでは、大学に入りたての学生に
「教科書以外の生物学の本で、
読んだことがあるものは?」
と聞くと、ほとんど何も読んでいない。
生物学科の学生がですよ。
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糸井 |
今の子どもが生き物とのつきあい方を知らないのは、
親や先生を含め大人の責任も
大きいということでしょうか。
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杉浦 |
昔は、猫だとか犬だとかを拾ってきて、
飼っちゃいけないとお母さんに言われて、
「どうすればいいですか」っ
ていう子どもからの相談が
たくさんありましてね。
僕は、「内緒でおまえたちだけで飼っちゃえ。
給食の残りをみんなで
持っていって食わせればいいし」
と答えて、「ここだけの話だぞ」
とラジオでやっちゃったんですけど(笑)。
犬や猫を飼って、面倒をみるのは大変なことです。
でも現実には飼えなくても、
お母さんは頭ごなしに「ダメです」じゃなく、
生き物に対する子どものそういう気持ちを
大事に考えてやらなくちゃいけないと思います。
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石川 |
生き物を見て、いとおしいという感情を失ったら、
人間はもうおしまいでしょう。
生き物を身近に置いて、
その本来の生き方を見ながら
学ぶことの意味は大きいし、
その生き物が自分に懐いてくれればまた嬉しい。
人間の心の安らぎにもなると思います。
そういうチャンスを、
大人は子どもに与えてほしいですね。
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杉浦 |
僕が昭和二十七年に上野動物園に勤め始めたとき、
園長は古賀忠道さんでした。
売札のおばさんから、
こんな話を聞いたことがあります。
戦後、上野には浮浪児がいっぱいいました。
モク拾いや靴みがきをやってて、
食べるためとはいえ、評判は悪かった。
その子たちは動物園に行きたいけど、
お金がないから隠れて入って行く。
それを見た古賀さんは売札場のおばさんに、
黙って入れてやりなさいとおっしゃった。
お母さんと一緒にキリンを
見ている子どもたちの目と、
真っ黒に汚れた浮浪児たちが
夢中になってキリンを見ている目とは同じだと。
そして、「この子たちのために」
という古賀さんの思いが、
上野動物園のいち早い復興につながるんです。
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糸井 |
泣きそうになるお話ですね。
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杉浦 |
動物を見る子どもたちの
美しい目を大事にしたい、
そういう姿勢を今の
大人たちにも求めたいんですよ。
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糸井 |
無意識に、子どもがもっていたはずの
生き物への興味を、
なくさせてしまっているということも
ありますからね。
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杉浦 |
あるとき、女の子からこんな電話がありました。
「金魚が死んだけど、お母さんが
箸でつまんでポリバケツに捨てなさいって」
と言ったきり、ずっと黙ってる。
聞くと、毎朝起きたらすぐに
水槽に見にいってた金魚が、
その朝死んでいた。
お母さんは朝の支度で忙しいし、
死んだ生魚の処置としては、
生ゴミと一緒に捨てるのが
適切だと思ったんでしょう。
お母さんに悪気はなかったと思うんです。
ところが子どもは、
死んじゃった金魚がかわいそうなんだ。
すごく悲しいんだ。
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石川 |
お母さんは、
自分で生き物を飼ったことがないんですよ。
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杉浦 |
その子は金魚を捨てることもできず、
悶々として夕方の四時まで待って、
電話してきたんです。
それで、「きみは宝物を入れるような
小さい箱を持ってないかい?
その箱に白い脱脂綿を敷いて金魚を寝かし、
箱を公園の片隅にでも埋めてやるといいよ」
と言ったら、その子は、
「わかった」と答えたかと思うと、
すぐにガチャンと電話を切っちゃった。
僕は「ありがとう」
なんていう言葉はどうでもいいの。
今やれることが決まって、
その子は多分、急いで箱を
探しにいったんだと思う。
そして、これであの金魚を
ポリバケツに捨てなくてもすむんだと、
すごくほっとしたんじゃないかな。
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糸井 |
こうしてお話をうかがっていると、
「ペットとは何か」という定義なんて、
どうでもいいという気になってきます。
石川先生のおたくのカメコも、
ペットという括り方では説明できないし。
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石川 |
四十年というのは親子でも
一緒にいないですから。
うちでは、「カメコどうしている?」
「水槽の中で餌食べてる」「日向ぼっこしている」
という会話がしょっちゅう交わされてる状況で、
常に身近にいるし、
ペットという感覚はまったくない。
このあいだ、クサガメの子どもが売られているのを
見ましたらね、非常に可愛い。
今もこれを目にしたら、
僕はまたカメを買うだろうと思いました。
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糸井 |
いいなぁー。
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杉浦 |
この先生のところのカメは抱っこすると、
目と目を合わせてくれるんだよと言ったら、
子どもは「ひゃーッ」ってびっくりしますよ。
感動ですよ。
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糸井 |
「イヤです」のポーズもあります。
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杉浦 |
生き物を見ていて
気づくことというのはいっぱいあって、
子どもの生き物に対する興味を大人が
伸ばしてやれば、
心はもっと豊かになると思います。
「このウサギさん、
なんで目が赤くなくて黒いの?」
と子どもが疑問をもちますね。
「黒いから黒いの」と答えるのは説明じゃない。
抱っこしてよく探すと、足の先がちょっと黒い。
少しでも黒い色素があると、目も黒くなるんです。
それがないと赤い目になる。
だから、「どれどれ」とウサギをよく見て、
「ああ、ここに黒いのがあった。
どこかに黒いのがあったら、目も黒いんだってさ」
と言えば、その子はまた一つ、
生き物の面白さを知ることになる。
まっ白で目が赤いのは「アルビノ」というんですけど、
その説明はもっと高学年になって教えればいいんです。
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石川 |
生き物について一つわかると、
またわからないことが増える。
だから面白いことや発見はいっぱいあります。
僕なんか、この年になってもその連続。
みんな意識をもって見ないだけなんですね。
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糸井 |
生き物と関わるということは、
なかなか奥が深いですね。
(おわり)
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