糸井 |
いまは、どういう状況なんですか。 落ち着いてらっしゃいます? |
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西條 |
いや、落ち着いてはないですね。 怒濤の日々‥‥といいいますか。 |
糸井 | ご自分のお仕事は‥‥? |
西條 |
週に二日は授業があるんですけど、 それ以外は もう、全部プロジェクトのことで。 |
糸井 |
今って、 枝野さんが絶えずテレビに出てきて、 という時期とは違うじゃないですか。 |
西條 | ええ。 |
糸井 |
あのころは、西條さんも やっぱり 同じように忙しかったんでしょう? |
西條 |
いえ、ぼくが初めて被災地に入ったのは、 3月31日なんです。 「明日、ガソリンが実家に入るぞ」って 聞いたときなんですけど、 つまり、動きはじめも、そこからで。 |
糸井 |
じゃあ、3月11日の地震から 30日までの間、 逆に、西條さんが何を考えていたのか 聞きたくなりますね。 |
西條 |
学者の自分に何ができるんだろうって、 試行錯誤していましたが、 やはり、ものを書いていましたね。 わかりあうための原発論とか、 いろんなテーマについて、 毎日ひとつは書こうと思って続けてました。 それが自分の本業ですから。 |
糸井 |
ぼくも毎日書いてるから覚えてるんだけど、 その場で判断できる書きものと、 状況が動いてて 自分も何を思ってるか掴めない書きものと、 両方あったでしょう、あのころ。 |
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西條 |
はい、今回の特徴は、 誰も「これが絶対、確かだ」って言えない、 あとにならないと分からない、ということ。 確かだと思っていたことが またひっくり返る可能性だって、あるし。 そういう 特有のむずかしさが、あると思います。 |
糸井 | うん、うん。 |
西條 |
3月16日に講演で秋田へ行ったときも 原発がどっちに転ぶか わからない状況だったんです、まだ。 ぼくは仙台に実家があるので、 父に「東京に来てほしい」 と、言ってたくらいなんです。 |
糸井 | なるほど。 |
西條 |
で、その16日に 自分の中で「ピーク」がきたんですね。 |
糸井 | ほう。 |
西條 |
どうしていいか、どう考えたらいいか、 わからなくなってしまった。 なにか、ちょっと疲れきってしまって、 もういいや‥‥と思ったら、 すっと答えが見えたような気がしたんです。 結局、これ「生き方の問題」だなって。 |
糸井 | はい、はい。 |
西條 |
自分は、どういうふうに、生きるか。 それは、今ある情報のなかで、 決めるしかないんだって。 ぼくの役割は、やっぱり学問ですし、 その日から、毎日書き始めたんです。 |
糸井 | その直前までは書けなかったんだ? |
西條 |
15日までは、書けませんでした。 叔父や友だちの消息も まだ、わからない状況だったし‥‥。 |
糸井 |
それこそ亡くなってる人もいれば、 助かった人もいるみたいな、 いろんな人がいた‥‥わけですよね。 |
西條 |
海側はもう完全に壊滅です。 「津波が届いたか、届かないか」で、 すべてが決まってしまった。 だから誰かれ、知り合いや友だちが 亡くなっていますね。 |
糸井 | 15日って、まだ「揺れてる」状況ですし。 |
西條 | 前日の夜、静岡で震度6弱がありました。 |
糸井 |
だから、 東京にいた場合と秋田にいた場合とじゃ、 その後の西條さんが 変わっていたかもしれないですよね。 だって、生々しさがあるじゃないですか、 秋田にいるほうが。 |
西條 |
ええ、実際、ぼくの実家はボロ家なんで(笑)、 「宮城・震度7」と聞いた瞬間、 「あ、これは潰れたな」と思ったんです。 消防士の兄は 「真っ先に実家を見に行った」って。 |
糸井 | はー‥‥。 |
西條 |
だからもう、自分自身で 助けに行くしかないなと思っていたら、 実家と連絡がついて 「なんとか無事だった」と。 |
---|---|
糸井 |
なるほど、そうでしたか。 どれくらい前だろう、ぼくのツイッターに 「西條さんと会わないんですか」 みたいな声が、わさわさと聞こえてきて。 会わないも何も そのときは西條さんがどんな人なのか‥‥。 |
西條 | ええ(笑)。 |
糸井 |
前からずーっと、 「そういう動き」をしている人かと思ったら、 そうじゃなかったんだ。 |
西條 | はい。 |
糸井 |
災害のプロ中のプロも動いていれば、 西條さんみたいに この渦の中で、そんなはずじゃなかったのに 動いてる人もいる。 そういう震災だったんだと思ったんで、 じゃ、お会いしてみよう、と。 |
西條 |
ぼくのほうにも 「糸井さんと、つながってください」 という声が、たくさん来ました。 |
糸井 |
プロジェクトは今、 どういう規模になってるんですか? |
西條 |
関わっている人数は、400〜500人です。 さまざまな部門が、どんどん立ち上がって、 動きながら拡大している感じです。 |
糸井 | 知識のある人ばかりじゃないわけでしょ? |
西條 |
ええ。 でも、知識のない大変さというより まず「会ったことない」んです。 今ごろ「初めまして」ということも いくらでもあります(笑)。 |
糸井 | あ‥‥。 |
西條 |
もちろん、中核になってくれている人は 知りあいですけど、 いきなり ネット上で出来上がった組織なので、 会ったことない人もたくさんいるんです。 立ち上げて数日後には ものすごい大きさになってしまったし‥‥。 |
糸井 |
そこ、おもしろいですよね。 西條さんは、「学者さん」じゃないですか。 そこに人が集まって、あの人と会いなさいって アドバイスする人がいたり、 俺は何すればいいですかって聞く人がいたり。 そんな状態で ひとつの組織が出来上がっていくわけですけど、 そんな体験、 今までの日本人は、してないと思う。 |
西條 |
そうかもしれません。 ぼくは世間的には、ほぼ無名ですから。 とにかく、今度のことは、 ツイッターの存在がすごく大きいです。 これが、いろんな人をつなげてくれた。 |
糸井 |
みんなが、 方向性の分からないベクトルみたいなものを 持っていて、 手をつなぐ先を探してたんですよね、きっと。 |
西條 |
ぼくは「構想」を出していくのが わりと得意みたいなんです。 |
糸井 | 構想。 |
西條 |
こうすれば全体がうまくいくという、 構想です。 |
糸井 | そういう学問をしていたんですか? |
西條 |
そうなんです。 これは、有事に最も適した考えかただと 思っているんですが、 もともと「構造構成主義」という学問を やっていたんですね。 |
糸井 | 構造構成主義。 |
西條 |
つまり、 ボランティアとはこう組織するものだ、 ものを送るときのノウハウは‥‥ という「経験」が、 今回の震災では、すべてとは言わないまでも、 かなり通用しなかったでしょう。 |
---|---|
糸井 | ええ、ええ。 |
西條 |
ぼくのやっている「構造構成主義」とは、 「無形の形」みたいな、 何にでも通用する「原理」なんです。 価値の原理でもあるし、 方法の原理でもあって‥‥ つまり「方法とは何か」という問いなんです。 で、すべての「方法」に当てはまる 「共通の原理」とは、何か。 そういうふうに考える学問をやっていまして、 その「原理」を すでに、学問的に作って持ってたんですよ。 |
糸井 | はー‥‥。 |
西條 |
「方法」というのは、 必ず「ある特定の状況」で使われますよね。 |
糸井 | ええ、ええ。 |
西條 |
「ある特定の状況」のもとで 「ある目的を達成する手段」のことを 「方法」と呼びますが、 これって「例外」がないんです、定義上。 |
糸井 | はい、はい。 |
西條 |
ようするに、 考えればいいポイントはふたつしかない。 それは「状況」と「目的」です。 今はどういう状況で、何を目的にしてるのか。 今回の場合は「被災者支援」ですけれども、 このふたつを見定めることで 「方法」の有効性が決まってくるんです。 |
糸井 | つまり「方法ありき」ではない、と。 |
西條 |
そうそう、そうなんですよ。 「方法」は、柔軟に形を変えていいんです。 |
糸井 | うん。 |
西條 |
はじめて行った被災地が南三陸町だったんですけど、 そのときは、こんなプロジェクト (ふんばろう東日本支援プロジェクト) をやろうなんて、まったく思ってませんでした。 とにかく、やれることをやんなきゃと思って、 バンを荷物いっぱいにして行ったんです。 被災地は南北400キロにも及んでいるわけだから ふつうに考えたら ものが足りてるなんてことあり得ない。 絶対、人が行ってないところがあるはずだ、と。 |
糸井 | なるほど‥‥ええ。 |
西條 |
でも、それにしても、 あまりにもすべてが、破壊されていました。 その場に降り立ったら すぐに、言葉を失ってしまいました。 |
糸井 | うん、うん。 |
西條 |
ふらふらと 被災地をさまよい歩いてる感じだったです。 でも、たまたま 現地の三浦さんという方と知り合いまして 「大きな避難所は すでに物資が山積みになってるから、 小さな避難所を案内するよ」と。 それが、4月1日のことだったんですね。 |
糸井 | ほー‥‥。 |
---|---|
西條 |
6カ所の避難所を、案内していただいて、 必要なものを渡していきました。 そしたら、それこそペン1本から無いし、 賞味期限の切れたものしか、食べてない。 赤ちゃん用のお尻ふきを手にした人が、 「自分たちも使わせてもらいます。 だれもお風呂に入れてないから」と。 ぜんぜん、届いてないんだと思って。 |
糸井 | うん、うん。 |
西條 |
で、縁あって知り合った三浦さんが、 どこにでも顔が利いて 必要なものを配ることのできる人だったんです。 なので、 三浦さんに必要なものを聞いてもらって、 「ぼくが、それをぜんぶ集めますから、 一緒にふんばりましょう」と。 そう約束して実家に帰ってからも、 ひたすら 南三陸町レポートを書いてました。 |
糸井 | つまり、仙台で。 |
西條 |
はい。 テレビで見て、知った気になっていたけど、 現場はぜんぜん違う。 愛知から物資をトラック満載で行ったのに、 避難所で、追い返された人がいるとか そういう話も聞いていました。 だから、どうやったら個人で行っても 役立つことができるのか、貢献できるのか。 そのあたりをうまく「方法化」できたら、 他の人もマネできるじゃないですか。 |
糸井 |
ようするに、そこで さっき言ってた学問の出番だったわけだ。 つまり‥‥「方法」を考え出そうと。 |
西條 |
そうです。 方法化して、ツイッターでつぶやいて、 あるていどまとまったら、ブログに載せました。 そんなことを ほとんど寝ないでやってたら、 1時間に1000人ぐらい、どんどん増えてって。 |
糸井 | フォロワーが。 |
西條 |
次の日の昼には もう、サイトが立ち上がっていたんです。 |
<つづきます>