アンリ |
ブォン・ジョールノ、糸井さん。 |
糸井 |
こんにちは、アンリさん。 アンリさんはふだんは イタリア語ですか? |
アンリ |
そうですね、 母国語はぼくがフランス語、 妻が日本語なんですが、 仕事で使っているのはイタリア語で、 妻ともイタリア語で話します。 |
糸井 |
そうなんですか。 僕はまったく外国語がだめなんです。 きょうは奥さまの通訳で 日本語で話させてください。 |
アンリ |
もちろんです、大丈夫ですよ。 |
糸井 |
よろしくお願いします。 そうか、こういう人が作ってるんだ、 と、あらためて思いました。 あらためて、はじめまして。 |
アンリ |
はじめまして。光栄です。 |
糸井 |
僕はアンリさんのことを何も知らないので、 そんなことも知らないの、ということを 質問すると思います。 |
アンリ |
お気になさらずに。 |
糸井 |
1つだけ知ってるのは、 アンリさんが、革の仕事に就く前、 プロのサッカー選手だったというお話です。 そのことはアンリさんのつくるものを 使ってる方はみんな、知っていることなんですか? |
アンリ |
昔からのお客さまは 知っているかもしれませんが、 ふらりといらっしゃるお客さまは、 全然、知らないかもしれないですね。 |
糸井 |
僕は何となくそれを知っていて、 サッカーと革製品のあいだに どうつながりがあるのか、 いつも分からないままに、 ミステリアスで面白かったんです。 |
アンリ |
いちばん最初の革との出会いに さかのぼりましょうか。 僕が7歳か8歳のときに 父が革のサッカーボールを プレゼントしてくれたんです。 でも、革のことを仕事にするなんて まったく考えないままに、 サッカーの選手になりました。 |
糸井 |
サッカーの選手として とても人気のスターだった方が このお仕事をするきっかけは なんだったのでしょう。 何度も聞かれているようなことを聞いて もうしわけないと思いますが。 |
アンリ |
大丈夫ですよ、全然。 僕がサッカーをやっていた、 いちばんピークの時代は、 僕が20歳ぐらいのときで、 ちょうど60年代後半から70年代前半にかけての ヒッピーの時代でした。 そのとき、僕は一所懸命サッカーをやって 成功してはいたんだけれども、 いつも自分の頭の中に 満たされない何かがあったんです。 ヒッピーの時代の考え方に対して、 サッカーの世界というのは とてもとても視野が狭かった。 僕は自由を愛していましたから、 そのサッカーの中の限られた世界というのに とても窮屈を感じていたんです。 |
糸井 |
はい。 |
アンリ |
あるとき、偶然なんですけども、 サッカー用のバッグが壊れてしまいました。 直しに行った先で、 ロランド・ロッシさんという、 去年、亡くなってしまったんですけれども、 もと馬具職人の方と出会いました。 そのときは彼はスイスの ミリタリーのバッグですとか、 そういうものを作る ほんとに小さな工房を持っていて、 そこに修理に出したんです。 そのときちらっと、工房の片隅を見たら、 ミリタリーのバッグって 名札がありますよね、四角い名札。 |
糸井 |
はい、はい。 |
アンリ |
それをくりぬいたあとの革があって。 これは何なの? どうするの? っていうふうに訊いたんです。 そうしたら「意味はないけど取っとくんだ」 っていうふうに言ったんですね。 別に何をやろうとも思わなかったんですけれども、 「じゃあ、それ、僕に貰えない?」って言いました。 家に持ち帰って半年ぐらい、取っておいたんですね。 それがあるとき、ふと偶然、 何か作ってみようと思って、 見よう見まねでベルトを作りました。 |
糸井 |
それを、売り物に? |
アンリ |
ヨーロッパに行かれると町中で 手づくりの細工物をぶらさげて 売り歩いている人がいますよね。 あれを、やったんです。 よく行く、スイスの、とある広場で。 そうしたら友達や、見てくれた人が、 これ、いいね、って言ってくれて。 そこからの始まりなんです。 |
糸井 |
全く偶然なんですね。 いま、お話を聞いていて面白かったのは、 スポーツ選手っていうのは人から見ると 自由のシンボルみたいに見えるんですね。 フィールドを自由に走り回って、 |
アンリ |
ええ。 |
糸井 |
特にサッカーなんて、そう見えるんです。 それを逆に自由じゃなくて、 自分はもっと自由だって考えてたって。 そのアンリさんの考え方の背景の方に また興味を持ってしまいました。 寄り道になりますけど、 スポーツ選手は自由じゃなくて 自分はもっと自由だっていう、 その背景について もうちょっとフィロソフィを、 聞かせていただけますか。 |
(つづきます。) |
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2008-10-31-FRI