早野先生とヴァイオリン 両国国技館でオーケストラとヴァイオリンやチェロを演奏しませんか?初心者大歓迎!

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生きていくために必要な力。

羽佐田
実際に、アメリカには戻られたのですか?
早野
戻ったのは最初の渡米から10年後。
22歳のときに、サイエンスを専攻する
大学院生として戻りました。
羽佐田
すでにサイエンスの道に進まれていたんですね。
おそらく、早野さんが音楽家になることを
周りは期待していたと思うのですが‥‥。
早野
将来は音楽家になるんですね、と
しょっちゅう言われていました。
羽佐田
やっぱり。
早野
でも、僕の周りには2つの勢力がありまして、
音楽家になることを期待する勢力と、
もうひとつ、僕、父親と祖父がお医者さんなんです。
なので、お医者さんになるんだよね、
とも言われていたんです。
羽佐田
音楽家になるか、お医者さんになるか。
早野
中学から高校に入るくらいまで、
両方の勢力から責め立てられて、
とてもつらい時期があったんですね。
なので、自然と、
「自分で将来を決めなきゃいけないんだ」と
思っていました。

でもね、高校生くらいの時期って、
周りが言っていることをそのままやるのが、
嫌なときじゃないですか。
「あなたは、お父さんも、お祖父さんも
お医者さまだから、あなたもなるのよね」
なんて言われたら、
意地でもなりたくないと思うじゃないですか。
羽佐田
あまのじゃくですね(笑)。
早野
僕は、まあまあ、あまのじゃく(笑)。
中学から高校生にかけて、ずっと、
音楽家や医者になる以上に、
自分がなりたい、やってみたいと思うものを
見つけるというのが、大きなテーマだったんです。
そんな中で、音楽家への道は、
割と早い時期に消えました。
羽佐田
それはどうしてですか?
早野
たぶん、子どもながらに、
その道のプロとしてやっていくことの厳しさが、
わかっていたんです。
あと、一生やっていくだけ好きなことか、
突きつめて、すごく考えたんです。
羽佐田
一生やっていくだけ好きなことか。
早野
すごく考え続けた結果、
僕は科学や研究をする、ということが
好きかもしれないと、なんとなく思ったんです。
それで、僕は鈴木鎮一先生のところへ行きまして。
「先生、僕、ヴァイオリンやめます」と宣言しました。
羽佐田
ご自分で。
引き止められなかったんですか?
早野
鈴木先生は、
音楽を教えることが一番の目的ではなく、
「音楽を通じて人を育てたい」、
そう思っている方でした。
なので、音楽家にならない僕を、
彼は認めてくれるだろうと、僕自身も思っていました。

いま、スズキ・メソードに通っている人は
世界中で40万人います。
でも音楽家以外にも研究者や作家、弁護士‥‥
いろいろな職種に進んでいます。
羽佐田
そうなんですね。
早野
もちろん音楽をやれば、一生たのしく、
精神的に豊かな暮らしができるかもしれません。
でも、音楽家になるために通っていたわけではない。

いま大人になって思うのは、
音楽を弾けるようになる、ということを通じて、
「生きていくために必要な力」を
身につけていたんだなと思います。
羽佐田
「生きていくために必要な力」。
早野
そうです。
子どもってね、
「きちんと毎日練習しなさい」と言われて、
きちんとやる子は世の中にそう、いないです。
でも、松本音楽院で僕は、
忍耐力、自制心、社会性や、やりぬく力。
そういう生きていくために必要な力を、
養う訓練をしていたんだなと思います。
それは、ヴァイオリンを弾けること以上に大切で、
今の人生に大きく影響していると思います。

だから僕は、いろいろな人に、
上手に演奏するために音楽を学ぶのではなくて、
スズキ・メソードを通じて
音楽のたのしさや僕が知った学びを、
少しだけでも感じてほしい。
そういう思いもあって、
「ほぼ日」という場に、この企画を
持ち込んでみたいと考えたんです。

(つづきます。)

2017-10-26 THU