ほぼ日 |
小説家志望の人のいわゆる努力が、
「努力のうちに入らない努力」
という保坂さんの考えは、
最初に聞いて、すごくおもしろかったんです。 |
保坂 |
ぼくは、小説って音楽性だと感じるんだけど、
その音楽性というのを、センテンスの
テンポのよさだと解釈しちゃいけないんですよね。
もっとぜんぜん違う、
「それを読んでいる間は、
ふだんの時間感覚と変わる」とか、
「ふだんとは別の気持ちになって読んでいられる」
とかいうことが大事なんだと思う。
テンポのよさって、
訓練すればいくらでもできちゃうし、
部分的な訓練でできることっていうのは、
時間さえかければ誰でもよくなるから
ダメなんだと思う。
そういうのは、
努力のうちに入らないんですよ。
終身雇用制の二〇代のうちの我慢みたいな、
その程度のつもりで
小説を書いていても仕方がない。
時間をかけてもできないことに
気がつくことのほうがよっぽど難しいですから。
十年以上前に、ぼくと同世代の女の人が
「自分はすごく頑張った」
っていうようなことを言っていたんです。
でも、それを聞いていると、
大会で何等になったとか、
英検1級を取ったとか、それで
先生にどれだけ褒められたかっていうもので。
「ぜんぶ外から言われるもんばっかりじゃん」
って言ったらさ、
その人がすごいびっくりして。
「あの、そんなことは考えもしなかった」
って言った。
ちょうどその人も
行き詰まっていたときだったから、
それを言われて、バーンって気がついたんだけど、
自分がつまり、外の評価以外にどれだけ、
自分の中でそれを良しとできるような基準を
考えてなかったか、という……。
もちろん、自分で良しとすることだけをやっていて、
いきなり、
「割り算ができないのも個性です」
とかいうと、
間違ったことになっちゃうんですけど。
テクニックとして確立されているものや、
口で説明できる程度のものだけに
触れるのではなくて、
説明できないものをどれだけわかるかというか。
相手が言おうとして、ぼくも言おうとして、
説明しあぐねているものを、
どれだけ察知しているか。
自分の中で持っているか。
そういうことが大事なんですよね。
この本で、
小説に関してぼくが言っていることは、
徒弟制度のおやじの言葉に近いのかもしれない。
「横で毎日見せてやってんだから、
それぐらいわかれよ」
っていうような、なんかそういうものに近いです。
でもさ、本当の技術って、
そうじゃなきゃ教えられないっていうか、
それ以上に伝えようがないんだと思う。
だから、この本で書いたのは、
けっこう、めいっぱいってところもあるんです。
注意深く読むっていうか、
考えながら読んでくれる人だったら、
あとは考え感じてくれるだろうというか。
だから、これ以上さ、手取り足取りしても、
その時点で考えない人は、やっぱり、
書ける人にはならないだろうな、
という気はするんです。
この本は、もしも小説作法っていう
膨大な完全な本があったとしたら、
一つ一つ丁寧には説明しないけど、その本に、
「ここはチェックしておいて」
って付箋をつけておいたようなものです。
今までの「書き方のマニュアル本」は、
まちがった個所に線をひっぱってた。
でも、そうじゃなかったこことここがあるから、
あとは自分でそこを読みなさい、探してきなさい、
そういう感じがあるんだよね。
もちろん、そのレベルで伝えているなら、
書かない人にも、
小説の楽しみが伝わると思ったし。
ものすごい厳密には書いていないものだけど、
「厳密であること」と「伝わりやすさ」は、
ぜんぜん別のものですから。
ただ、この本を読んだ若い人は、
もしかしたら実例が古いと思うかもしれない。
例えば、川上弘美がないとか、
町田康がないとか、阿部和重がないとか……。
そういうことを言うかもしれないけど、
そう思うレベルじゃダメなんだと思う。
ぼくは二〇代のときに
カルチャーセンターの仕事をしてたんだけど、
若い受講生には、そういう人がいっぱいいました。
音楽の例とかで、五年前のヒット曲とかが出ると、
「なんかださい」とかすぐに言い出す人がいた。
でも、なんかそれって、
知ったかぶりをしているだけじゃんっていうか。
そう言っている限りは、
「その人自身が
半年経てば古くなるものの中に生きている」
ということに、まだ気づいていないというか。
小説を読んでいる人が、
小説を書ける人になるかどうかというのは、
その人の気持ちの持ち方全体が関わるわけで、
例えば、一つ未完の小説があったとして、
それを未完だっていうことを
気にせずに読めるかどうか。
「これはまだ未完でしょ?」とか言って
読まない人は、やっぱり
小説に対して、まだ受け身だと思うんです。
小説っていうのは、与えてくれるもので、
それをたのしむもので、
結末まできちんと揃っていて、と……。
でも、書く側の気持ちとしては、
小説なんか部分だから、
部分だけ転がっていてもそれで読むんです。
完結しているとか、していないとか関係なくて、
その部分がおもしろいかどうかということは、
やっぱり、わかるはずでしょ、みたいな……。
おもしろければ、途中が転がってるだけでも
楽しめるはずだっていう気持ちが、
生まれてる人が、小説家になれる人で。
で、それはもう、あの、やっぱり、
自分からそうなろうと思ってもなかなかなれない、
自然な気持ちの状態だから。
それがあるかないかは、きっと、
チェック項目のひとつだと思うんですよね。
だから、小説家になれるかどうかの、
チェック項目があるとしたら、
「上下関係の秩序の中に住むことを平気と思えない」
「未完の小説みたいなのを、気にせずに読める」
っていう。そういう感じ……。
まぁ、もちろんぼくは、才能ってことは考えないし、
チェック項目も、あんまり考えていないんですけど。 |
ほぼ日 |
今までで最高傑作と自負している
『カンバセイション・ピース』を
出版して、かなり経ちましたが、
今はどういう気持ちで生活していますか? |
保坂 |
『カンバセイション・ピース』を
実際に書き終えたのは二月末で、
そのときからは八か月経っているから、
自分の中では、もう整理がついていますね。
去年の暮は、あの小説を書いてたから、
暮の大掃除できなくて、
「小説を書き終わって、
この小説が手を離れたら、大掃除をしよう」
と思ってたの。
でも、謎なんだけど、まだ掃除をできてない(笑)。
この『書きあぐねている人のための小説入門』を
予想よりも早くしあげないといけなくなって、
七月、八月はけっこう大車輪で働いてたんですね。
九月もいろいろそれが尾を引いてて。
ただ、十月に入った後でさえ、
もういいはずなのに、掃除に手が回らない。
これが、ほんとに疑問なんだよね……(笑)。
だから、いろんなやりたいことが、
何にもできてない時期なの。
自分のホームページのコンテンツを新しくするとか、
中途半端になってる「自作解説」を
ホームページにもっとたくさん書くとか。
……あ、ぼくの小説の自作解説は、
一応あんまり嘘のない、書いてるときの気持ちが
いくつも載っているので、感心のある人は、
『書きあぐねている人のための小説入門』の
応用編として、読んでもらいたいんですけど。
なんで今は
時間がないんだろうなぁ、って思うんです。
ぼんやりしてるとね、けっこう丸一日ぐらいは、
何にもしないで過ごすことができちゃうのが不思議。
で、丸一日何にもしないで二日目に、
「そうだ、こんなことしてちゃ」って、
絵を見にいこうとか散歩ぐらいはしようって(笑)。
こないだ久しぶりにエッセイを書いて、
文章もだいぶ書いてなかったんで、
文章自体が書けなくてね、困ったぐらいだから……。
それぞれの日に具体的にやったことを入れていくと、
けっこう、確かに理由はあるんだけど。
でもね、こう、過ごしてしまった自分としては……。
掃除ぐらいはできただろう、とか思うんだけどね。
ま、なんか、なんにもしないんだよね、もともとが。
そういう、よく言えば精神の貴族というか、
時間感覚における貴族っていうか、それは、
小説家には大事だろうとかって思うんですけどね。 |