糸井 |
“はちまき”をしないと、
本当は熱狂みたいなものが
つくれないと思うんです。
恐らく政治の世界は
熱狂をつくっていくような
仕組みがあったと思うので
細川さんは、
居づらかったのではないでしょうか。
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細川 |
はちまきをしていないと居づらいですね。
やっぱり。
本当に嫌でしょうがなかったですね。
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糸井 |
なっちゃうものなんですね、それでも。
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細川 |
総理もすぐ辞めたかったんですけど、
なかなか辞められなくて。
そのもっと前にいくつか
辞めるタイミングがあったと思うんですが、
結局そこで辞めたら
それこそ無責任だという話になってしまうので。
でも、投げ出したとか、放り投げたとかって
知事を辞めた時も
さんざん言われましたからね。
別にそんなことを言われてもいいんですけど。
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糸井 |
その「言われてもいいんですけど」のあたりは
ものすごく確固となさってますよね。
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細川 |
そうですね。
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糸井 |
そこで強いものを探すとすれば、
「他人がどう思ってもかまいません」という、
この強さはもう圧倒的ですね(笑)。
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細川 |
とくに辞めることに関して、
出処進退は本当に
人にはまったく相談しませんし。
嫌だから辞めたんだって、それ以上
説明も何もしないもんですからね。
知事を辞めたときもそうなんですけど、
前の日だったか、
前々日だったかに家内に言って、
三期しないで突然辞めるというもんだから
皆さん、やっぱりびっくりされますよね。
支持率が70%もあって、
なんで急に辞めるんだということになる。
私は、ポストや権力というものに
全く関心がないんですね。
「何をやるか」ということだけにしか
関心がないもんですから。
それをやったら本当にもう3日ででも辞めるという、
そういうほうがいいと思っています。
それは説明しても
なかなかわかってもらえない話でしょうね。
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糸井 |
減らしていくということについての
気持ち良さ。
ご自分のすべてが、その覚悟、
減らしていくことのなかに
あるんですね。
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細川 |
そうかもしれませんね。
どっちかと言うと引き算のほうが。
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糸井 |
それはずいぶん抱えた家に
生まれたせいなのかな‥‥、
とも思うんですけど、
意識はあまりなさってなかったとおっしゃるし。
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細川 |
あまり意識はしてないですね。
引き算かどうかわかりませんけども、
代々の人達を見ていきますと、
みんなものすごく距離感がいいんですね。
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細川藤孝(幽斎)像
江戸時代 17世紀、東京永青文庫蔵
東京展での展示期間は5月11日〜6月6日
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初代の幽斎にしても、
始祖の頼有にしても
そうなんですけど、
やっぱり細川家がずっとこれだけ
続いてきたというのは、
物事に対する、或いは人に対しての
距離感がすごくいい。
“バランス・オブ・プロポーション”
と言うんでしょうか、
じつにそこのところが鮮やかなんですね。
例えば幽斎は
秀吉や家康から持ちかけられた位階や加増を、
断っているんですね。
領土なんかも、
丹後の5万石にかえて、
もっと加賀の100万石だとか
会津の100万石だとかという話を受けても、
「いや、それは要らない」と断るとか。
なんていうのか、全く
物欲しそうな顔をしないんですね。
それがわりに代々の人達に続いてるものですから、
なんの引き継ぎも家訓もあるわけじゃないんですが、
人やものに対する距離感の
いいところを受け継いできた。
だからあまり嫉まれずにきた。
「もっと領土を寄こせ」なんて言ったら、
たちまち足をすくわれてたと思うんですけど。
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糸井 |
そのつど敵ができていたでしょうね。
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細川 |
ええ。
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糸井 |
先祖は何してたんだろう、
というようなことに
興味を持たれたりしたのは
いつ頃なんですか。
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細川 |
そうですね。社会人になってからですね。
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糸井 |
学生まではあまり?
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細川 |
ありませんでした。
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糸井 |
自分の決断をしなければならないときが
始まってから、ですね。
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細川 |
そうですね。それでも新聞記者の頃はまだ
そんなに関心がありませんでしたから、
政治の世界に入ってからでしょうかね。
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糸井 |
そうか。それもやっぱり必要だという。
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細川 |
ええ。そうですね。
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糸井 |
いわゆる帝王教育みたいなものは
ないんですか。
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細川 |
子供の頃、小学校に入る前から
素読はさせられましたけどね。
『論語』とか『古文孝経』とか、
『万葉集』『古今集』ですね。
子供だから勿論わかりっこないですけども、
そういうものを一字、一字、はしで指しながら
毎晩
「子曰わく、学びて時に之を習う」と、
ずっとそれをやらされてました。
それがそういう帝王教育なのかどうなのか、
父はたぶんそういうことでなくて、
子供の感性を少し養うというか、
そういうことが目的だったのかと思います。
昔の人は夏目漱石でも正岡子規でも、
みんなやっぱり漢籍をやってますから。
あの頃の人にとっては
みな当然のことだったのかもしれませんね。
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糸井 |
つまり細川家でなくても
そういうことをしてる家がいっぱいあったと。
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細川 |
じゃ、ないでしょうか。
ただ、お能をやらされてたというのは、
ちょっと珍しいかもしれませんね。
それからさっき文武両道という
お話もありましたけど、
この近くに道場がありまして、
子供の頃そこに熊本の高岡師範という
剣道の達人が来られて、
短い期間でしたけども、やらされてました。
そういうのもちょっと
珍しいかもしれませんね。
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糸井 |
「かくあるべし」
みたいな教えがあるとかじゃなくて、
いわば授業が一つ増えたみたいな。
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細川 |
そうです。
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糸井 |
躾だとかマナーみたいなものというのは?
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細川 |
それはまったくありませんでした。
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糸井 |
普通に育った家が
どうとかっていう標準が
あるわけじゃないですけど、
例えば自分のことで言えば、
大人になる手前のところに、
そのくらい知らないとな、みたいなことで
ナイフとフォークを使うということを
覚えなければならない時期がありました。
そういうことをしてなかったですか。
細川さん、勿論ナイフとフォークは
子供のときから使いますよね?
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細川 |
いえ、ナイフとフォークを使った覚えは
あまりないんです。
もっと大きくなってからだと思います。
でもそれもちゃんと教わったことはありません。
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糸井 |
そういうものなんですか。
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細川 |
私、ちょうど小学校1年のときが
終戦の年だったんですね。
鎌倉に疎開してました。
毎日弁当にジャガイモと
鯨肉の入ったようなものを
持っていってました。
だからあまりナイフとフォークを
使う必要もなかったのかもしれません。
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糸井 |
知らないで細川さんのドラマを、
もし誰かが想像で書くとしたら、
だいぶ誤解するでしょうね。
あの至宝と言われるものを維持しながら
生きてきた小学生がいたりしたら、
それはきっと半ズボンはいてランドセル背負って、
糊の効いた白いシャツで、
毎日こういうお屋敷に居て、みたいに
勝手に考えちゃうんですけど、
どうも違いますよね。
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細川 |
そうですね。
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糸井 |
そういうことに形式を重んじる必要がなかった?
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細川 |
あまり私のところはそういうことは。
──恐らく、いろいろ話を聞くと、
他のお大名家なんかでは
けっこうやかましい躾がいろいろあった、
という話を聞きますけども。 |
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(つづきます) |