今村 |
基本的に「大学」というところは
出願願書を受け付けて、入学試験をやって、
春に新入生が入学してきます。
夏のはじめには前期試験があり、
長い休みに入って、後期がはじまり‥‥と
決まりきったサイクルがあるんですね。
で、学費をきちんと納めてくれれば、
経営としては、成り立つんです。
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糸井 |
つまり、わざわざ、
別府の山の上に「とんでもない大学」をつくる
必要なんか‥‥。
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今村 |
ないですよね。
そのサイクルがうまく回っていれば、
つまり、「経営」的な意味では。
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糸井 |
ええ。
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今村 |
大学のサイクルを繰り返すことで
1年1年が終わってたんです。
さっきの、
1994年の「琵琶湖移転」まではね。
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糸井 |
それまでは穏やかだったんですか?
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今村 |
穏やかでしたね、わりと。
でも、1990年代に入ってから
うちの学校が外の世界との結びつきが増えると
「やってみたい」って気持ちが
まあ、いろいろと、出はじめてきたんです。
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糸井 |
その流れのなかに、APUがあった。
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今村 |
学校をつくるなんて事業は
100年に1度あるかないかの大仕事じゃないですか。
だから、やってみたいなと。
まあ、そんな大仕事に手を付けようが、
何にもしなかろうが、
べつに、給料が変わるわけじゃないんですが、
苦労してでもやりたいって気持ちは、
やはり、みんなにあったんだと思います。 |
糸井 |
集められた人たちの心は、揃ってたんですか。
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今村 |
そうですね、だいたいのところは。
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糸井 |
このへんも、おもしろいところですよね。
ビジョンが
くっきり見えていたわけじゃないのに、
「そっちへ行こう!」って
気持ちの揃う仲間がいたということが。
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今村 |
たしかに、いま思えば、不思議な話ですね。
その人たち、今はほとんど京都の立命館で
はたらいてますけど、
「とんでもない大学」をつくるために
力を合わせて、がんばったわけですから。
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糸井 |
個人個人の単位で考えていたら、
絶対やらないでしょうね。
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今村 |
無理でしょうね。
ただ、大学のおもしろいところは
やはり、
教員の存在が大きく影響しているってところ。
つまり、彼らは、
「常識を逸脱できる人たち」なんです。
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糸井 |
研究者たちは。
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今村 |
そもそも仮説を立てることが仕事だし、
何かに迫ろうということを
いつも、考え続けている人たちなんですね。
だから、彼らの構想力がなければ
大学という組織は絶対に発展しないんです。
職員の力だけでは、絶対に無理。
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糸井 |
社会常識と思われていることに対しても
学問って、
どうしても逸脱したいものである‥‥と。
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今村 |
だって、
「サルから人間に進化した」とかって
ふつう、考えますか?
教員というのは、そんなことを考える人たち。
つまり、現実からジャンプしたアイディアを、
アクターである研究者は持っていて、
われわれプロデューサーは
彼らと、どううまくタッグを組めるか。
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糸井 |
なるほど。
常識の範囲内でやれば大学はできるけど、
いちばんはじめに
とんでもないビジョンを設定してしまったのは、
研究者たちの存在が大きいと。
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今村 |
仮説を証明するのが研究だとしても
たとえば
「雨の日は天気が悪い」ことを証明したって、
おもしろくも何ともないわけですよ。
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糸井 |
うんうん。‥‥うまいこと言いますね(笑)。
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今村 |
大胆な仮説だからこそ、
常識に挑戦するからこそおもしろいんです。
でも、やはり、
APUの構想が走り出したころは、
私自身、
うまくいく自信は、まったくなかったです。
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糸井 |
ああ、やっぱりそうですか。
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今村 |
ただし、
当時の経営トップはちゃんとしたもので、
大分県、別府市から支援をいただいて
財政的に成り立たせたり、
あるいは、
奨学生の寄付を募って企業を駆け回って
約40億円集めたり、
そういう努力をコツコツやってたんです。
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糸井 |
常軌を逸した構想の一方で。
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今村 |
理事長は「平成の托鉢僧」と言われてました。
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会場 |
(笑)
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糸井 |
でも、それこそが
経営する側の「はたらく」ですもんね。
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今村 |
ええ、そうなんです。
<つづきます> |