たとえ街外れにある小さな喫茶店であろうと、そこで起こるあらゆることに店長は責任を負うべきだと今村は考えていた。 それは、コーヒーの濃さだろうと、サンドイッチの品質だろうと、トイレットペーパーだろうと、雨漏りだろうと、強盗だろうと同様である。 つまり今村は、貴史がドアベルを鳴らして入ってきて以来、店長としてずっと申し訳なく感じていた。 なかでも痛恨はレジの中に置いた現金の少なさである。いくらなんでも三千円はひどい。そこに十万円に近い現金があれば、数分でかたがついたかもしれないのだ。その意味では、今村は貴史に対してさえ、申し訳なく思っていた。 それで、今村は迷いなく申し出た。銃にこめられているのが実弾か空砲か試すなら、ぜひ自分をと挙手した。もちろん生半可な決意ではない。正直にいえば、恐怖を感じる。 「試すなら、私をお願いします」と言った声も震えていた。 今村は立ち上がった。けれども、足が前に出ない。 「あ?」と貴史は言った。なにもかも貴史は面倒になっている。おまけに暑い。 「私が……」と言いながら今村は一歩踏み出して、体重の移動がうまくいかずによろけ、身体を支えようと左手をテーブルについたところ、テーブルの一端がガタンと跳ね上がって、弾みで爪楊枝を入れたケースがひっくり返ってしまった。 爪楊枝のケースは爪楊枝をばらまきながらテーブルの上を転がり、床に落ちてなおも爪楊枝をあたりにばらまいて、奥まで転がってようやく動きを止めた。 今村は、ほんの一瞬、緊張感から解放されて、心からうんざりした。なぜというに、ばらまかれてしまった爪楊枝ほど始末に困るものはない。なにしろ口の中に入れて使うものだから、拾い集めてそのままケースに収めるわけにはいかない。かといって洗ってつかうことも難しい。となると捨てるしかないのだが、床やテーブルに落ちた爪楊枝というのは、パッと見、新品同様である。そういうものを捨てるときには、やはり罪悪感がある。また、ゴミ袋にまとまった量の爪楊枝を入れると袋を突き破る可能性が大いにある。しかたなく厚手の紙袋や要らなくなった紙箱などに入れて捨てることになるが、罪悪感は増すし、そもそも自分は何をしているのだという馬鹿馬鹿しさがある。 それで今村は、あちこちに散らばった爪楊枝を見下ろしてしばしうんざりした。 「おい」と貴史は言った。 「はい」と今村は答えた。 うんざりしたおかげで、足の震えは止まっていた。 今村は、店長として、散らかった爪楊枝の責任をとるべく、しゃがみ込んで床に広がったそれをざっとかき集めた。銃を持った男がそれを長く許してくれない気配があったから、集めた爪楊枝をテーブルの上にかためて置きながら「お待ちください」と言った。低く、誠実な声だった。 今村は貴史と向かいあった。 貴史はすぐに銃口を今村の眉間へ向けた。どういうわけか場のイニシアチブを自分がつかみ切れてないことが、貴史を激しくいらつかせた。なにしろ、自分は銃を携えて押し入ったのだ。少なくともこの小さな空間においては自分を軸にすべてが巡るべきだと貴史は考えていた。ところが、どうだ。 貴史は、銃をぐっと今村に近づけた。今村はその暗い穴を見つめながら、まっとうな思考から自己を隔離しようと努力していた。すなわち、死とか、痛みとか、血とか、後悔とか、逃避といったことを、あずかり知らぬものとしてとらえようとした。 ふと今村は鳥飼を見た。鳥飼はそこに立つことを辞退した身であるから、どのような形でも自分は関わってはならないと感じ、口を結んでじっと座っていた。しかし、今村の視線に気づくと、ほんのわずかにうなずいてみせた。 大丈夫、弾は出ない、と。 今村は目をつぶった。貴史は目をつぶった今村を狙った。ふたりを見つめる人々はふたりを見つめる以外に何もできなかった。鼓動が速い。 今村と今村に向けられた銃口の間は、ほんの数十センチ。 貴史の人差し指はトリガーにかかっている。そう、あとはこれを人差し指で引くだけだ。 貴史は数分前に天井へ向けて一発撃ったときの衝撃を思い返していた。右腕がパーンと後ろへ弾け飛んだときのあの衝撃、鼻の奥を刺すような火薬のにおい。あれが空砲なわけがない。ということは、弾は、出るのだ。この、右手に持った銃の先から。貴史の額から鼻筋へかけて汗が流れた。 今村は、ひょっとしたら最後かもしれないと思った。そう思ったら閉じていたまぶたが自然に開いた。目の前に、銃口。自分に向けて、強いエネルギーが移動しかけていることを今村は感じた。今村の顎を汗が伝う。 鼓動が速い。 貴史の指に特別な力が加えられたその瞬間、マリが気を失いそうになり、由希子が目を閉じ、謙一が呆然として、鳥飼が歯を食いしばったその瞬間、全員が意外に感じることが起こった。そこにいる誰もが、事態をうまく把握できなかった。まるで、違う世界の極端な場面が間違ってその場に紛れ込んだみたいだった。 響いたのは着信音である。誰かの電話が鳴っている。 貴史と今村の間にあるテーブルに、全員のiPhoneが集められている。そのうちひとつが着信している。 今村は音に覚えがあった。その番号からかかってきたときに、特別な着信音が鳴るように設定していたのだ。そして、着信したときの画像も特別なものが表示されるようにしていた。 自分のiPhoneの画面に表示されたのは青い空と大通り。道の向こうに細く尖った白い塔。ブエノスアイレスの風景だ。 「出ていいですか」と今村は反射的に言った。 「だめだ」と貴史は即答した。そして答えた勢いでいよいよ指に力を込める。禁じられて、今村はiPhoneに向かって伸ばしかけた手を止める。 着信音は鳴り続けている。 「出ていいですか」と今村はもう一度言った。 貴史は答えるかわりに銃口をさらに近づけた。今村は近づいてきた黒い穴に吸い込まれそうな気分になった。着信音がくり返す。そろそろ鳴り止むかもしれない。 「出させてください」と今村は言った。それは、遠くブエノスアイレスから鳴らされているのだ。今村が着信音のするほうへ近づこうとする。 おいっ、と貴史が声を荒げる。もう鳴り止むかもしれない。しかし、出ることは許されない。 たった一度だけ、今村の身体の奥から怒りの渦がほとばしり出た。今村は貴史をにらみつけ、誰も聞いたことのないような声で短く怒鳴った。 「出させろ!」 絞り出された声が空間を貫いた。今村は手を伸ばし、自分のiPhoneをつかんだ。テリー・ジョンスンがデザインしたケースには、ワニがデザインされている。ディスプレイをスライドさせ、それを耳に当てて今村は言う。 「もしもし……うん、パパだ」 親子の通話を、全員が見守る。 「うん……うん……そうか……うん……わかった……そうだね……いや、大丈夫……ありがとう……うん……」 銃を構える貴史に、感覚が徐々に戻っていく。またしてもイニシアチブが自分にない。黒く冷静な怒りで貴史は塗り潰されていく。瞳から光が消え、表情が読み取りづらくなる。豪雨をもたらす雨雲みたいに、貴史の身体がむくむくと膨らんでいくような気がする。 もう、猶予がない、と今村は感じる。 「うん……もう切るよ……パパ、仕事なんだ……うん……がんばるよ……ありがとう……ママによろしく……じゃ、切るよ」 今村は通話を終え、画面をスリープさせ、ゆっくりとiPhoneを置く。シンクロするように、貴史が銃口の位置を整え、力を込める。人差し指がトリガーに食い込む。今村が目を閉じる。 「弾は出ない!」と鳥飼が叫ぶ。 「うるさい!」と貴史。 「やめて!」とマリ。 来る、と今村は確信した。 次の瞬間、強い力を受けて、今村は吹っ飛んだ。メガネが砕けて破片が飛ぶ。 鮮血。
(つづく)