喫茶デュラムセモリナの窓際の席に座る二人は互いに努めて冷静さを失うまいとしていた。しかし、言葉を発するうちにどうしても感情は理想的な振る舞いからはみ出していった。頬から耳にかけて赤くなり、相手の主張に割って入るときは声が無闇に大きくなった。
カウンターの内側でコーヒー豆を焙煎している今村は、経験上、それが別れ話であることを早々に感じ取っていた。木曜日の午後3時といったいかにも中途半端な時間は、意外にそういった話が持ち込まれることが多い。
どうやら男が原因だが、女は丸め込まれそうだと今村は思った。
謙一の論理は筋違いだったが、ぶれなかった。由希子は「そういう問題じゃないでしょう」と何度も遮ったが、その度、謙一は違う切り口から語り直し、いつの間にか同じ論理へと戻って、むしろ由希子を諭すように優しく言葉を重ねていった。
これじゃ埒があかない、と、由希子も今村も思った。一方で謙一は、店の隅々へ、そういった諦観が徐々に広がっていくことに確かな手応えを感じていた。なにしろ、謙一は慣れていたのだ。それで今村は、焙煎したコーヒー豆を容器へ映しながら、男が原因だが、女は丸め込まれるだろうと思った。
そして、由希子は、自分の中のフェイズを最終段階へと切りかえつつあった。楽観的なものから心底どうしようもないものまで、由希子はいくつかのルートをシミュレートしてこの場に臨んでいた。結果的に、状況は最もやっかいでタチの悪いところへ落ちていこうとしていた。
目の前で、男は、持論をくり返していた。まるで、ボクはキミのために何度もくり返しているんだよ、とでもいうように。
由希子はいい加減、飽き飽きしてしまって、つい、テーブルの上に置いたiPhone5をいじりそうになった。いけない、そんなことをしていたらまた先送りになってしまう。由希子は下まぶたのあたりにぐっと力を込めて謙一をにらんだ。
テーブルの上に置かれたそのiPhone5にはプラスチックのケースがセットされていて、表面にはなんともマヌケなイラストが描かれている。野球の審判らしき男が頼りなく手を広げ、その上に妙なバランスで「Safe」の文字がある。
──ちっともセーフじゃない、と由希子は思った。
由希子は、もう、だいたいのことを諦めていた。ほとんどの後悔も既に終えていた。突き詰めれば、こんな履き違えた論をくり返してちっとも恥じない厚顔に心を許した自分の責任なのだ。まったく、ひどい目に遭った。
聞きながら由希子の感情はどんどん冷めていったが、逆に彼女のこめかみを走る血はその速度を上げつつあった。それは、全部を諦めた由希子が最後の計画を実行しようとしていたからである。ささやかだが、効果的なそれを。
由希子は謙一にコップの水をぶっかけようとしていた。それは、事態がどうしようもなくなったときにコクピットで押す脱出ボタンのようなものだった。
なにもかも最悪だけど、最後に、洋画の一場面みたいにそれを決行して、全部をぶった切って席を立ってやる。由希子はそう決めた。それで、こんなにも鼓動を速めている。まるで、『ゴッドファーザー』のレストランのシーンで、テーブルの下に隠し持った拳銃の引きがねに指をかけているアル・パチーノみたいに。
男はしゃべり続けていた。由希子は、さり気なく目をふせて、コップの中の水量を確認した。十分だ。というか、その最後の計画のために、念のため由希子は水を一口も飲まずにいたのだ。
さぁ、いよいよ、と思ったとき、由希子は思いがけず動揺した。当たり前だけれどもそれは初めての経験だったから、由希子には様々な部分が未決定だったのだ。由希子はその刹那、こう思った。
コップの水は、顔にぶっかけるのか? それとも、胸のあたり? あるいは、その、まんべんなく?
男はまだ優しくくり返している。由希子は、迷っていた。
どのタイミングで、どんなふうに、どこにぶっかければいいのか?
(続く)
|
2013-05-15-WED |
|