糸井 いちおう、ぜんぶ写真を出し合いましたけど、
終わってみて、どうでした?
ぼくみたいに写真家じゃない人と
写真を撮って出し合うというのは、
ふつうに考えれば失礼な話なんですけど、
どう思いました? こういう遊びは。
石川 いや、すごく楽しかったし、
何枚かは負けたと思いましたよ。
とくにあの、木と鳥の写真なんかは(笑)。
糸井 はははははは。
こんなよくわかんない写真は、
素人にしか撮れないですからねー。
石川 こういう写真って、ぼくはけっこう
まじまじと見ちゃったりするんです。
どこを見てるのか、なにを撮ったのか
わかんないような写真っていうのは、
見る側は考えちゃうし、撮りたくても
変に意識していては撮れないんですよ。
糸井 ああ、そうですか。
逆に言うと、素人は、こういうことを
もっと活かさなきゃダメだよね。
石川 うん、活かすっていうか、
そういうところが写真のおもしろさなのに
消しちゃうのはもったいない。
糸井 と、言いつつも、じつはぼくは
よくわかってないと思うんですけど、
「撮りたいけど、撮れない」というのは
どういう部分なんでしょうか。
石川 これは、糸井さんの視線が
そのまま写ってるように思えます。
写真を撮る人って、構図を考えたり、
トリミングしたりして、つい、自分の美意識で
世界を作っちゃったりするんですけど、
糸井さんのこの写真は、
「よくわからない風景」というか、
現実の生の姿が見たまんま、写ってる。
カメラが目の延長になっている感じです。
こういうさりげない写真のほうが、
がちがちに世界を切り取りました!
っていう写真よりもぼくは好きですね。
糸井 ああー、そういうことですか。
石川 たとえば、いまぼくの目の前に、
3人のひとが座ってますよね。
これをいま写真に撮ったとしたら、
3人のひとが並んで写ります。
でも、ぼくの視線の中では、
じつは真ん中の人だけを見ていて、
ピントは真ん中の人に合ってるわけです。
つまり、3人全員にピントは合ってない。
でも、写真では、3人にばしっとピントを
合わせることも可能ですよね。
実際には真ん中の人だけを見てるのに。
糸井 なるほど。
石川 つまり、ありのままを写しているようでいて、
人間の視線そのものが写るわけじゃないでんすよ、
カメラって。
その差異をできるだけ少なくして、
視線そのものと写真を近づけようと
努力している写真家もいます。
難しいですけどね。
糸井さんのこの写真は、
主張するような自意識が感じられないし、
そこにあるものをすっと受け入れていいて、
いいな、と思います。
糸井 それで、石川さんは、
この写真を見たときに
「これはなにを撮ったんですか?」って、
わざわざ訊いたんですね。
石川 やっぱりわかりやすい写真は
おもしろくないですからね。
「これきれいだろ、見て見て」みたいな写真は
確かにきれいかもしれないけど
飽きちゃいますよね。
やっぱりカメラが身体の一部として、
目の前の世界に反応するみたいに
撮った写真のほうがいいなあと思います。
糸井 同じレベルで例に出すのは
ものすごく失礼だと思いますけど、
昔、荒木(経惟)さんの写真を見て、
いま石川さんがおっしゃったようなことを
感じたことがあるんですよ。
「この人は、ほんとうに
 瞬きみたいに撮ってるんだなぁ」と思って。
それで仕事になるんだったら、
写真ってほんとにおもしろいんじゃないかなって
思った覚えがあるんです。
石川 ああ、なるほど。
糸井 もちろん、自分でできるとは
とても思えなかったので、
写真には近づかないようにしてたんです。
ところが、2年くらい前に、
「お正月休みのあいだ、
 リアルタイムで更新するコンテンツがない」
っていうことで、自分で写真を撮って、
それを掲載するコンテンツをはじめたんです。
それが、そのまま続いちゃってるんですね。
誰に習ったわけでもないし、
最初は撮るたびにものすごく迷ってたんですけど、
我慢してずっと撮ってたら、2年、続いちゃった。
石川 今日、糸井さんの写真全部見て
やっぱり、はじめて撮ったって
感じじゃないな、と思いましたよ。
2年やってる蓄積はありますよね。
糸井 毎日撮ってるっていうのは、
なんか出ちゃうんでしょうね。
石川 うん。
糸井 なによりもさ、ぼくは、
そこだけは自信があるんだけど、
「これは撮ってもつまらないぞ」って
早く気づけるようになったんですよ。
だから、今回の撮影会で、
自分をほめてあげるとすれば、
さっさと動物園を出たことですよ。
「動物を撮ってどうするんだ?」って
気づけるか、気づけないか。
そういうところは、自信がある(笑)。
石川 そうですね。
いろんなものを見ていると
わからなくなりますから。
糸井 そういうことなんでしょうね。
「なにしたいんだよ?」って、
つねに問いかけないとダメなんですよ。
それは、だけど、文章もそうですよね。
石川 ああー。
糸井 「それ書くって、なによ?」
という問いかけがつねにないと。
「なんで書くのかわからない」
ということであれば、
正直にそれを突き詰めたら、
「わけがわからないというよさ」も
出てきたりするわけで。
石川 そうですね。
糸井 まぁ、だからといって、
この鳥と木の写真がすごくいいぞと、
胸を張れない部分があるんですけどね(笑)。
ただ、ぐだぐだな風景を、
「ほんとに、ぐだぐだだな」って思いながら
そのまま撮ったら、最終的には、
「これは残したいな」って思えたんですよ。
だからこそ、今日、持ってきてるわけで。
ま、図々しい話ですけど。
石川 でも、自分の中に基準がないと
それはできないと思うんですよね。
写真というのは、その行為の過程で、
取捨選択が何度も何度もあるんです。
見たものに対して、
いつ何にシャッターを切るか決め、
どれをプリントするか決断し、
展示などをするにあたってはそれをまた選び、
構成を考え・・・といった風に。
ぼくはそのたびに過去の記憶が解体されて、
新しい世界に出会っている感覚があります。
そうした取捨選択のセンスっていうのは、
写真をたくさん撮ったり、見たりしないと
できてこないと思うんですよ。
やっぱり、自分の経験がないと基準ができない。
糸井さんの写真には、そういう基準が
きちんとありますよね。
糸井 そう‥‥ですか‥‥
ないような気もするけど‥‥。
石川 (笑)
糸井 でも、ありがとうございます。
  (続きます)
2007-12-10-MON