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糸井 |
誰かの撮った写真が、
うまい、へたを超えて、
「うらやましい!」って思えたときって
なんていうか、励みになりますよね。
子どもが撮った写真に
「おもしろいなぁ!」って感じたり。 |
石川 |
ああ、子どもが撮る写真は
ほんとにおもしろいです。 |
糸井 |
「なんで、そんなことができるの?」
っていう、よさがあるんですよね。 |
石川 |
子どもって、変な先入観や経験の蓄積がないから、
さっきの話じゃないけど、
何かに反応して素直に撮るんですよね。
「キレイに撮ろう」なんていう
半端な美意識がないから、
写真の中に、自意識を超えたものが写っちゃう。
それがおもしろいですね。
ぼくなんかも、気をつけないと、
ついそのことを忘れちゃうんですよ。
思わずキレイに撮ろうと思っちゃったり(笑)。 |
糸井 |
「思わずキレイに撮っちゃう」
という表現はおもしろいなぁ(笑)。 |
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石川 |
ようするに、
「カレンダーみたいな写真」に
なりがちなんですよね。
「キレイじゃないキレイさ」っていうか
「どうでもいいキレイさ」っていうか。
そういうのにハマッたら、
どこか有名なポイントで一列になって
何時間も待って、
富士山の夕日みたいな
ベタな写真をあえて撮ろうとする、
カメラ好きのおじさんになっちゃう。 |
糸井 |
高いレンズと三脚を抱えて、
土日に撮影会をするような(笑)。
もちろん、「キレイな写真」を目指すなら、
それはそれで楽しいんでしょうけどね。
でも、やっぱりぼくは、自分の撮った写真の中に
「どうでもいいキレイさ」じゃないものを
見つけることのほうが楽しいですね。 |
石川 |
ええ。 |
糸井 |
つまり、歌がうまく歌えるっていうのと
同じことだと思うんだけど。
カラオケでいくらうまく歌っても
ぼくはそんなにおもしろくないんですよね。
うまいっていったって、限度があるし、
たかが知れてると思うんです。
だから、「うまい、へた」じゃないところで
「ほら、撮れた!」っていうものを見つけたい。 |
石川 |
写真の場合は、経験を積んでいくと
どんどん「カレンダー写真」に
近づいていくこともあるので、
その意識は重要ですよね。 |
糸井 |
正直、プロのカメラマンでも
そっちにハマっちゃう人っていますよね。 |
石川 |
います、います。 |
糸井 |
いっぱい、いるよねぇ。
そういう需要があるというのも
大きいと思うけど。 |
石川 |
ぼくはそういう写真に飽き飽きしているから
なんとか踏みとどまってるけど、
ちょっと油断してあっちの方向に行っちゃうと
むちゃむちゃキレイな夕焼けとか
むちゃむちゃキレイな海とか山とか
つい、撮っちゃいますから。 |
糸井 |
わかる。
つまり、キレイな写真とは
こういうものだっていう
標準語ばかりを語っちゃうんですよね。
だけど、経験を重ねるとそうなるほうが
自然だともいえるわけで、
そこから逃げまくる意思がない限りは
捕まっちゃいますよね。 |
石川 |
そうですね。 |
糸井 |
「カレンダー写真」は、
キレイで正しいかもしれないけど、
おもしろくないんですよね。
なんていうか、会社にたとえると、
すごくきびきびと社員が働いてて、
上司の言うことを完璧にこなしてる会社。
立派だなとは思うけど、
魅力があるかというと、違いますよね。
それよりは、なんだか知らないけど
出てくる人は変な人ばっかりで、
社長は社長で奥から突然走ってくるような人で、
それでいて、
「あそこの会社、なんか儲かってんだよ」
みたいな会社があったら、
そっちのほうがおもしろいでしょ。 |
石川 |
ははははは。
要するに人間がもっている美意識なんて
たいしたもんじゃないんですよね。
「写真で世界を切りとる」なんてよく使いますけれど、
その人の美意識で切り取られた世界よりも、
世界そのものの力のほうが実は圧倒的に強くて
ばっちり構図を決めていくら美しい写真を撮っても
やっぱり現実をこえる力はもちえないんですよ。
当然ですけどね。
人間がもっている美意識の中で、
「この風景を切り取ったらキレイだろう」
なんて考えても、たかが知れてると思います。
類いまれな感受性をもったアーティストなら
それはちょっと違ってくるかもしれませんが、
ぼくを含めた多くの人の美意識なんて、
どれだけ感性を研ぎ澄ませても、
所詮は限界がある。
そういったところからはみ出たものがおもしろくて、
意識を超えた無意識の部分とか、
飛び出したものとか、はみ出たものとか、
過剰なもの、そういうものがちょっとでも
写真に写り込んでると、響いてくるんですよ。
やっぱり、陳腐な美意識で世界を切り取るのではなく、
目の前のあるがままの世界を受け入れることのほうが
大切なんじゃないかな。 |
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糸井 |
「こういうのをキレイって言うんですよね」
っていうような意識が見えた瞬間に、
カラオケみたいになっちゃう。 |
石川 |
撮ってる人に
「キレイでしょ?」って言われてると、
キレイに思えなくなる、みたいな。 |
糸井 |
そうだよね。
ちゃんとした歌手なんかは、
そういうのをちゃんと、わかってて、
奥田民生とか、山崎まさよしとかは、
みんなの言う「収まったもの」じゃないところで
新しい美しさを作ってる。
きっと写真もそういうのがあってさ、
プロとして飲み込まれずに、
それをずっとやり続けるって大変なことだよね。 |
石川 |
はい。 |
糸井 |
たいへんですよ、プロの写真家は。
素人は、1年に1枚撮れたというだけで、
「ああ、よかった」って思えるけど、
プロの場合は、頼まれたときに
頼んだ人の水準に合わせる
答えが必要になるから。
「インドに行きました」っていう
写真を要求されたときに、
編集者の考える「いいですね」っていうのを
ちゃんと撮ってあげないと、
「あの人ダメ」って言われるかもしれないし。
一方で、それだけの答えを出してばかりいると
なんか、潰れていくんだよね。 |
石川 |
そうですね。
編集者に、こういうの撮ってって言われて、
ばっちり撮ってくるのが
優れたカメラマンなんだけど、
要求に応えようとばかりしていると、
作品としてはちょっと弱くなってしまう。 |
糸井 |
「やろうと思えば注文にだって応えられるよ?」
って自信がないと、
やんちゃなこともできないしね。 |
石川 |
せめぎ合いですね。 |
糸井 |
それはもう、写真に限らず、
あらゆる表現がそうで、
実用の面というか、メシ食ってく面と
人類全体に貢献するような生き生きする面と、
両方があって、せめぎ合うんですよね。
その点、素人は、
できるかできないかはさておき、
人類全体の面だけを生きてればいいんですよ。 |
石川 |
ああ、そうですね。 |
糸井 |
だから、その意味でいうと、
カメラっていうのはすごい道具だなぁって
オレは思うようになった。
誰かが注文したわけじゃないから、
「オレの勝手だろう」って撮れるわけだから。
そっちの方が爆発する可能性が
あるかもしれない。 |
石川 |
そうですね。ほんとに。
なんか写真を撮りまくっていると
自意識が邪魔をしてくる。
子どものようには撮れなくなってきます。
写真って世界の端的な模写に過ぎないと
ぼくは思うんですね。
だから、ときどきぼくは
ノーファインダーで撮ったりもするんです。
犬ぞりに乗っていて
カメラを構えてられないってときなんかも‥‥。
ノーファインダーで撮ったものには、
自分が意図しない偶然みたいなのが呼び込まれて、
逆に力のある、おもしろい写真に
なったりもするんですよね。
もちろん失敗も多いですけれど(笑)。 |
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糸井 |
なるほど、なるほど。 |
石川 |
だから、写真っていうのはもう、
世界の端的な模写にすぎないんだって
思ってます、ぼくは。
自分の美意識で切り取ると思った瞬間にダメ。 |
糸井 |
そんなこと、写真学校では、
なかなか教えてくれないでしょ。 |
石川 |
言葉にして教えてはくれないですね。 |
糸井 |
そこのところ、早い段階で
誰かに聞いときたいですよね。 |
石川 |
ぼくも早くに聞きたかったです(笑)。 |
糸井 |
「なんで撮るんだっけ?」
っていう部分がなくて、
構図であるとかさ、対比とか、安定感とか、
とんちみたいなことばっかり
言ってるじゃないですか。 |
石川 |
ああ、構図とか、
ぼくはちっともできてないです。 |
糸井 |
そういうことをみんなが
共通の言語としてありがたがって、
セミプロっぽい人たちが
「できてないな」とか
「構図がなってないな」とか
言ったりすることで、
いろんなおもしろいものが
潰れちゃうんじゃないかな。 |
石川 |
そういうこともあったかもしれませんね。 |
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(続きます) |