天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。

第4回 天才学級のきざなやつ。
浦谷 「『タンポポ』の映画本編より、
 おもしろいメイキングを撮ってしまいますけど、
 いいですか」って訊いたら、
「いいよ。
 それとこれとは、別のおもしろさだから」って。

糸井 それは、知的な会話だなぁ。
浦谷 のちにね、深作欣二監督にも
同じようなこと言ったことがあるんだけど、
ぜんぜん、反応ちがったよね。
糸井 深作さんは、なんて?
浦谷 まぁ、決して「いいよ」とは言わないよね。
糸井 というか、ふつうはムッとしますよ。
浦谷 深作さんも、ドキュメンタリー好きでしょう?
糸井 手法として取り入れてますよね。作品に。
浦谷 そうそう。あの『仁義なき戦い』シリーズの
ヤクザの抗争シーンとかも
手持ちカメラで追っかけるような感じでね。

スタティック(静的)なドラマがイヤなんだ。
糸井 「ニュース」の匂いをさせてますよね。
浦谷 でも、あれだけの作品を残したすごい監督でも、
こと「ドキュメンタリー」については、
伊丹さんのレベルには行ってない‥‥と思う。
糸井 そう思いますか。
浦谷 思う。
糸井 はー‥‥。とにかく、伊丹さんには
なんで、そんなに才能があったんだろうかと思うと、
なんか「悲しさ」さえ感じるんですよ。
浦谷 悲しさ。
糸井 いや、あの、すごいなって思うのはもちろんだけど、
伊丹さんの才能に
あらためて触れてみたら、なんか悲しいというか‥‥。

浦谷 ああ‥‥。
糸井 いや、あの、生意気なんですけどね、
そんな悲しいだなんて、人のこと言うのは。
浦谷 いや、なんとなくわかるよ。
糸井 つまり、どう表現したらいいのか‥‥
「先生はどうして
 何でもわかってらっしゃるんですか」
と訊かれた孔子が、
「それは、わたしの生まれが悪いからだ」って
言ったっていうじゃない。
浦谷 そうなんだ。
糸井 なんか、すごいことをやってきた人には
そういう悲しみを、感じるというか‥‥。

浦谷さんが、このDVDのなかで
伊丹さんの生い立ちをていねいに描いているのも、
伊丹さんのそういう部分に
惹かれてるんじゃないかなって、思ったんです。
浦谷 個人的にも、いちばん知りたかったんですよね。
少年時代のことについては。
糸井 つまり、この才人の生い立ちの部分。
浦谷 うん、で、いざ本気で調べようとしたらね、
伊丹さんの履歴書には、
ある時期に、
穴というか空白があることに、気づくんです。
糸井 へぇー‥‥、空白。
浦谷 結局、そこのところは
このDVDでも埋められなかったんだけど‥‥
ひとつには、
天才児だけを集めた天才学級で学んだ京都から、
松山へ転校して、高校時代を過ごすでしょ。
糸井 うん、うん。
浦谷 で、その高校で大江健三郎と出会う直前、
ダブってるんですよ‥‥伊丹さん。
糸井 ああ、そうでしたっけ?
浦谷 うん、そこで1年、ダブってる。
糸井 ほう‥‥。
浦谷 かたちとして「休学」なんだけど、
つまりは、不良やってたんだろうと思うんだ。
糸井 なるほど、平たくいえば。
浦谷 でね、当時の天才学級のことを知っている
林直久さんっていう同級生、
この人も最後の最後に探し当てたんだけど‥‥。
糸井 DVDにも、出てきた人だ。
浦谷 そう、林さんは、その京都の天才学級のなかでも
いちばん頭がよかった人らしい。
糸井 天才学級のなかの、成績トップ。
浦谷 で、その林さんといちばん仲よかったのが
伊丹さんらしいんですよ。
糸井 へぇ‥‥。
浦谷 ちなみに、そのいちばんだった林さんは、
何をやってた人かっていうと、
ずーっと組合の活動やってたわけ。最後まで。
糸井 なんだか、ナゾの多い‥‥。

浦谷 で、その仲のよかった林さんと伊丹さんは
いっしょに、
いろんなところを「放浪してた」んだって。
糸井 放浪ですか。
浦谷 それも「伊丹さんのお母さんのすすめ」で、
当時の「名のある人のところへ、いろいろと」‥‥
とかって、林さん本人が言ってる。
糸井 いろいろ、よくわかりませんねぇ。
浦谷 いろんなところへ「放浪」に行ってたのって、
何のために? 何かの修行してたのか?

これはもう、最後までわからなかったんだ。
糸井 そうなんですか。
浦谷 ともかく、松山の直前に1年ダブってる。

だから、松山の高校に転校したときは、
同級生より、1歳年上だったわけです。
糸井 そうなりますよね。
浦谷 転校先の松山東高校の学生はみんな、
戦々恐々としてたらしいよ。

なにしろ、映画監督・伊丹万作の息子で、
なぜだか、ほんとは1歳年上で‥‥って。
糸井 しかも、京都の都会の、「天才学級」出身なわけで。
浦谷 うん、松山東高校の教師でさえ、
「とんでもないやつが来るらしいぞ」って
ウワサしてたみたいだから。
糸井 あの…天野祐吉さんって、
高校生のとき、松山で伊丹さんと
同学年だったらしいんですけど、
(注:退学、休学などの関係上、
 伊丹さんと天野さんに直接の面識はない)
「本当にきざだった」って言ってた。
浦谷 ああ、きざね‥‥。

当時の集合写真をみても、それはわかると思う。
ひとりだけ長髪で、シャツ姿だったりして。


松山東高校時代。一人だけ制服・制帽姿でないのが伊丹さん。
糸井 でも、それにしては、孤独じゃないというか、
まわりと仲良くやってるじゃないですか、伊丹さんって。
浦谷 人が集まってきたみたいだよね。
糸井 そのへん、「手だれ」といったらあれだけど‥‥。
浦谷 ひとつにはさ、お父さんが遺した蓄音機と
大量の西洋音楽のレコードを、
京都から、持ってきてたらしいんですよね。

で、級友たちが、
その西洋音楽を聴きにきてたみたいなんだ。
糸井 そんなもの、誰も持ってなかった時代に。
浦谷 そうそう。伊丹さんの下宿に遊びにいけばさ、
クラシックを聴くことができるって。
糸井 めずらしい店を開いたみたいなもんですよね。

でも、それを「道具の使いかたがうまい」って
言っちゃったら、おしまいなんだけど‥‥。
浦谷 うん。
糸井 何というか、「必死だったのかな?」って思いが
いつも付きまとうんです。伊丹さんについては。

さっきの「悲しみ」の感じとも、似てるんだけど。
浦谷 うーん‥‥。
糸井 誰だったかな‥‥誰かとの対談のなかで、
「人の見てないところで、うんと努力してきた」
というようなことを、
ポロッポロッと、漏らすんですよ。
浦谷 ええ、ええ。
糸井 その、「きざでかっこつける人」にしては
ずいぶん、漏らしてたんです。
浦谷 うん、うん。
糸井 でもやっぱり、いちばん辛かった部分は、
たぶん、語っていないですよね。
浦谷 ああ、そのあたりの「人との距離感」は、
伊丹さんならでは‥‥かもなぁ。

糸井 以前、作家の村松友視さんに会ったとき、
訊いてみたことがあるんですよ。

「伊丹さんのこと、何で書かないんですか」って。
浦谷 ほう。
糸井 村松さんは、
中央公論の伊丹さんの担当編集者として
かなりの時間、
いっしょに創作の現場にいたわけでしょう?
浦谷 そうですね。
糸井 そうしたらね、こう言うんですよ。

「伊丹さんという人は、なんかさ、
 逃げ水みたいに‥‥
 スルリスルリと逃げてっちゃうんだよな」って。
浦谷 ああ、わかるなぁ。
糸井 捕まえようとすると、すっ‥‥と逃げちゃうって。
  <つづきます>


03学生時代と周囲のひとびと。

伊丹十三さんが13歳の時、
父・万作さんを亡くされた一家は、
しばらくして、母と妹は松山に、
伊丹さん自身は京都にと、
別れて暮らすことになりました。

このとき、一人暮らしの伊丹さんと、
食事を作る人として同居したのが、
お父さんの映画のファンであった、野上照代さんです。
野上さんはそれから映画のスクリプターになり、
黒澤明監督とたくさんお仕事をされたあと、
のちに黒澤プロのプロダクション・マネージャーと
なられました。

1950年、16歳で伊丹さんは松山へ行き、
母妹といっしょに暮らすようになります。
高校は松山東高校へ、1年次に編入しました。

ここで伊丹さんは芸術愛好サークルに所属し、
生涯にわたっての友となる、
作家の大江健三郎さんや、上智大学の教授となる
安西徹雄さんと知り合います。
大江健三郎さんはのちに伊丹さんの妹である
ゆかりさんと結婚され、義弟となります。
安西さんとは、のちに伊丹さんが企画、出演された
「一六タルト」のテレビCMで共演もされました。

高校時代の友人たちとは、当時よく伊丹さんの部屋で、
万作さんの形見の蓄音機でレコードを聴いていたそうです。

また伊丹さんが松山に来て最初の部屋に住んでいたころ、
「放浪の無名のピアニスト」と知り合い、
クラシック音楽についての蒙を啓かれるさまが、
エッセイ『ヨーロッパ退屈日記』に描かれています。
伊丹さんが二十歳をすぎてバイオリンを習ったりする素養は
特にこのころ、磨かれていたようです。

その後伊丹さんは、松山南高校に転校します。
ここは、エッセイストの天野祐吉さんが
卒業された高校でした。
当時天野さんは伊丹さんの格好良さを噂に聞き、
遠巻きに眺めていたそうです。

参考:『伊丹十三の本』『伊丹十三の映画』(新潮社)
   『NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』
   DVD「13の顔を持つ男」ほか。


2009-06-11-THU


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