天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。

第5回 食うために、必死に。
糸井 捕まえようとすると、すっ‥‥と逃げちゃう。
浦谷 とくに生い立ちは、わからないことが多い。

まず、京都小学校の「特別科学教育学級」に
選抜されてたわけでしょう。
糸井 例の「天才学級」のことですね。
浦谷 湯川秀樹が設立を提唱したとかいう
将来の科学者を養成するための特別学級ですよ。

だからこれ、
同級生なんかも蒼々たるメンバーだったわけ。

糸井 でしょうねぇ。
浦谷 湯川博士のご子息とか、
史学者の貝塚茂樹の息子さんとか‥‥。

このDVDでは、その同級生のうち、
日本画家の上村淳之(あつし)さんにだけは、
インタビュー取れたんだけどね。

この人も、
美人画で有名な日本画家の上村松園の孫だし。
糸井 ああー‥‥。
浦谷 そういうような少数精鋭の天才児たちと
机を並べて、
しかも、英語で授業やってたっていうね。
糸井 小学生が。
浦谷 それも戦時中だよ?
糸井 つまり、当時の「敵性言語」ですよね。
浦谷 中学も同じような学校へ進むんだけど、
13歳のときに、
肺を病んでたお父さんが、亡くなっちゃう。

そこで、お母さんと妹さんは、松山へ。

なのに、なぜか伊丹少年だけが京都に残って、
身のまわりの世話をしてくれる女性と、
ふたり暮らしを始める‥‥。

その女性が、のちの黒澤明の片腕、
野上照代さんだった。
糸井 あのあたりも、すごいですよね。

浦谷 よくわかんないでしょう?
糸井 このDVDにも、
その野上さんが証人として出てきますけど‥‥
「スクリプター」だったんですよね。
浦谷 そう、そう、そう。

映画の現場で、撮影の内容なんかを記録する
商売の人だったわけです、野上さんは。
糸井 黒澤映画のほとんどに関わった記録の人と、
いっしょに住んでた‥‥。
浦谷 伊丹さんは「乳母だ」って言ってたらしい。
糸井 うーん。
浦谷 これはまぁ、想像にすぎないなんだけど、
ガールフレンドだって
そうとう、いたにはちがいないですよね。
糸井 そうでしょうねぇ。
浦谷 想像だけど、まちがいないと思う。

だから、学校の勉強なんかそっちのけで
ちがう勉強を、いろいろやってたんじゃないかと
思ったんだけど‥‥つかみきれなかった。
糸井 そうですか。
浦谷 で、高校からは松山の学校に転校して
大江健三郎と交遊しましたから、
そのときのことは、のちのち
大江さんの自伝的な小説に書かれてたりするよね。

ま、半分以上フィクションだろうけど。

糸井 あ、そうなんだ。
浦谷 でも、最大のナゾは、
東京に出てきた直後あたりのこと。
糸井 大学は受験しなかったのかな?
浦谷 大阪大学を受けて、落ちたらしい。
糸井 ふーん‥‥。
浦谷 で、東京に出てきて、新東宝編集部で
映像かなんかの編集助手の仕事をはじめるんです。
糸井 あの、例の商業デザイナーになる前?
浦谷 そうなんです。

でもさ、映像フィルムの編集やってたんなら、
そのまま、
後の映画監督に直結してったっていいでしょ?

でも突然、商業デザイナーになってるんだ。

当時は
「書き文字屋」とか「図案家」とかって
いわれてたらしけど。
糸井 しかも、その世界で
「日本ーうつくしい明朝体を描く男」だなんて
言われるほどの腕前を発揮するわけですよね。


父・万作の全集の明朝体も伊丹さんの手によるもの
~DVD『13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像』より
浦谷 昔から絵がうまかったとはいえ、
デザインとかレタリングの勉強とか修行とか‥‥
どこで、どうやってたのか。


伊丹少年が小学校1年生のときに描いた野菜の絵は
あまりの巧さに感心した父・万作の友人・中村草田男が
もらって帰ったというエピソードも残っている
~DVD『13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像』より
糸井 そこが、空白なんだ。
浦谷 うん、わからない。
突然デザイナーになっちゃってるんだよ。
糸井 はー‥‥。
浦谷 それも「日本一きれいな明朝体」なわけよ?

そりゃあ、
描いたものを見たら、納得はするんだけどさ、
「なんで?」って疑問ばっかりで。
糸井 しかも、その何年かあとには、
こんどは「俳優・伊丹一三」になるわけでしょ。
浦谷 ちなみに、商業デザイナー駆け出しのころに
作家の山口瞳さんと知り合って、
かなりの影響を受けてたらしいですけどね。




作家・山口瞳さんの『人殺し』タイトルロゴも手がけた。
また、映画監督の山本嘉次郎が
「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。
 いや世界一である」と評するほどの腕前だった。
~ともにDVD『13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像』より
糸井 おもしろいなぁ。
浦谷 そこらへんの経緯については
「なぜ、どこで」が、ぜんぶナゾでしょ?

どうも、そのあたりの交友のつながりが
出てこないのは、
お袋さんの関係じゃないかなと思うんだ、ぼくは。
糸井 ほう。
浦谷 いや、これはオレの推測なんだけどね。

だってさ、親父さんのことについては
いっぱい言ってるんだけど‥‥。
糸井 ええ、ええ。言ってますよね。
浦谷 お袋さんのことは、ほとんど語ってないんですよ。
糸井 そういえば。
浦谷 で、後年、突然、精神分析に傾倒するじゃない。
糸井 ああ、はい。ええ。
浦谷 精神分析家の岸田秀さんの
『ものぐさ精神分析』を読んで、突然。

「目のまえの不透明な膜がはじけとんだ」
とかって言って。
糸井 岸田さんと共同で本も出されましたよね?
浦谷 うん、『哺育器の中の大人』ってやつ。
糸井 精神分析がテーマの
『mon oncle』(モノンクル)って雑誌の編集長も、
やりはじめて。
浦谷 で、このDVDで、岸田さんが言ってるんです。

「あくまで推測ですけど」とことわりながらだけど、
「伊丹さん、母親との関係性に
 なにか問題があったんじゃないかなぁ」って。
糸井 ふーん。‥‥放浪しろとすすめたお母さんと。
浦谷 松山から東京に出て、食わなきゃいけないとき、
仕事場を紹介してくれたのって、
お袋さん絡みの関係だと思うんだ、間違いなく。
糸井 でも、お袋さんのことがまったく出てないから、
そのあたりの事情も、よくわからないんですね。
浦谷 うん、そこを突っ込みきれなかったんです。

伊丹さんの「上京」と、
それにまつわる「お袋さんとの関係」とが、
ぼくにとっては最大のナゾだったね。
糸井 うーん、なるほど‥‥。

でも、商業デザイナー、俳優、イラストレーター、
エッセイスト、映画監督‥‥とか、
「13の顔を持つ男」としての伊丹さんには
いろいろナゾが多いかもしれないけど、
少なくとも言えるのは、
ぜんぶ「本気で必死だった」ってことだと思う。
浦谷 うん、それは言える。
糸井 なんか、どれも
「趣味」とか「遊び」っぽく見せてるけど、
でも、それらぜんぶ
「食うネタ」として必死にやってると思う。

浦谷 うん、そう、そうですね。
糸井 そのことは、けっこう重要だと思うんですよ。

内なる「必死さ」が表には現れないから、
趣味の多いお坊ちゃんが「遊び」をきわめて、
達者なことやってるって見る人も
いるかもしれないけど、
ぜんぶ、ちゃんとメシのタネにしてるでしょう?
浦谷 そのとおりだね。
糸井 で、伊丹さんのそういうところって、
「病で臥せっているお父さん」を
見てきたからじゃないかって、
いま、こう話しながら思いましたね。

つまり、はたらけない人が家にいたわけで。

そのことは、
伊丹さんの「食う」についての思想にも、
影響を与えてるんじゃないかと。
浦谷 手に職つけなきゃダメだってことだ。
糸井 オレ、伊丹さんから学びたいことって
いろいろあると思うけど、
今はとくに、そこだと思うんですよね。
浦谷 ああ、なるほどね。
糸井 いろんなナゾはあるかもしれないけど、
でも、とにかくぼくは、
伊丹さんが、ここまでいろんなことを
達者にできたことの理由って、
ぜんぶ「食うことにつながってる」って考えれば、
わかるなぁと思ったんです。
浦谷 うん、そうかもしれない。
糸井 テレビの仕事にしても、俳優の仕事にしても、
なんて言うの、
すごく、
お客さんに対してサービス満点じゃないですか。
浦谷 うん。
糸井 13の顔は、食うためだった。
浦谷 うん、そうかもしれないね。
  <つづきます>


04父・伊丹万作さんのこと。

伊丹十三さんの父・伊丹万作(本名 池内義豊)さんは、
昭和初期に名画をいくつも残した映画監督であり、
脚本家でした。

1900年、愛媛県松山市に生まれ、
1928年に「仇討流転」で監督デビュー。
その後、「花火」、「国士無双」、「忠次売出す」、
「赤西蠣太」などを自らのシナリオで監督し、
名作「無法松の一生」の脚本を最後に、闘病のすえ、
伊丹十三さん13歳の時に、46歳で亡くなられました。

学生時代(松山中学。のちの松山東高校)には
同人誌で文章を書き、監督デビュー後も随筆を著し、
また俳人・中村草田男氏と生涯にわたる親交を持つなど、
映画人としてだけでなく、文人としても知られていました。

「無法松の一生」は戦時中、軍の検閲で恋愛のシーンが
カットされるなどしました。
しかし、その人気は高く、映画評論家の白井佳夫さんは、
朗読パフォーマンスによる復元で
この作品を観てもらうという活動を20年続けており、
伊丹十三さんに応援されていました。

不朽の名作といわれる「無法松の一生」は
血はつながっていなくても、父と子の物語であり、
そこに父・万作の思いを見たであろう伊丹十三さんは、
著書「女たちよ! 男たちよ! 自分たちよ!」の中の
「父と子」というエッセイで、

「ああ、わたしもそろそろ、
 父が『無法松の一生』を書いた年齢にさしかかっている」

と書いています。

参考:『伊丹十三の本』(新潮社)
   『NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』ほか。


2009-06-12-FRI


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