小林秀雄のあはれといふこと

しみじみとした趣に満ちた言葉の国日本。
そんな国のいとおもしろき言の葉を一つ一つ採取し、
深く味わい尽くしていく。
それがこの項の主な趣向である。

其の四拾参・・・・願望


弟子 「先生、お願いがあります」
小林 「なんや、あらたまって?」
弟子 「先日、中出郁さんから精子の時のことを
 おうかがいしたのですが、
 その後どうなったのか気になって仕方ないのです。
 もう一度、お会いすることはできませんか?」
小林 「そうか。
 実はな、俺もその先を知りたかったんや。
 ほな、いってみよか」
小林先生と弟子の北小岩くんは再び中出郁氏を訪問した。
中出氏とは精子の頃からの記憶を持つ男なのだ。
(詳しくは第四拾弐「記憶」をご参照ください)
小林 「こんにちは。度々すみません。
 先日のお話の続きをお聞きしにきました」
中出 「おっ、秀雄くんに北小岩くんか。
 まあ上がってくれたまえ。
 確かこの間は受精するまでを話したね。
 それからね、とても辛い体験をしたんだよ」
弟子 「それは他の精子と戦って
 勝ち残るよりも辛かったのですか?」
中出 「あの時とはまったく種類の異なる苦しみなんだ。
 君はエディプス・コンプレックスを知っているかね」
弟子 「はい。子供が持つ同性の親への敵意のことで、
 ギリシャ悲劇から命名されました。
 男の子の場合は、母親を取り合う
 ライバルである父親に対する
 殺害願望という形を取ります。
 フロイトの精神分析です」
中出 「そうですね。
 だが、私はその分析に大いなる疑問を持っています。
 なぜ男児が父殺しへの願望を抱くのか。
 それは母を独占したいということではなく、
 実体験による父への不信感からなのです」
弟子 「と申しますと?」
中出 「受精して3ヶ月、私は子宮の中で
 至福の日々を過ごしました。
 子宮にいると両親の会話が手にとるようにわかります。
 父は母にも私にもとてもやさしかった。
 お腹に口を近づけ
 『男の子だったらキャッチボールしような。
  女の子だったらお前が最後の恋人だよ』
 というあたたい言葉をかけてくれました。
 うれしかった。
 この世に生を受けたことを神様に感謝しました。
 それが4ヶ月を過ぎた頃に豹変したのです」
中出氏は突然怪談話の口調になった。
中出 「その日も子宮で夢見ごこちでした。
 その時です、父の悪魔のささやきが聞こえたのは。
 『なあ、そろそろいいだろう。
  どうせもうできちゃってるんだから、
  ナマで楽しもうよ』。
 私は耳を疑いました。
 母は
 『もう遅いんだから寝ましょう』
 とやんわり拒みました。
 でも、すぐに父の中指が入ってきたのです。
 私はできる限りの声で叫ぼうとしました。
 『やめて、お父さん!』」。
小林 「お父さんはどうしましたか!」
中出 「私の声は耳に届きませんでした。
 そのうちに母の呼吸も乱れてきた。
 息が荒くなると体内の酸素が不足するので、
 胎児まで苦しくなってしまうのです。
 父はそれでもおかまいなしでした。
 指より何倍も太いモノがねじ込まれてきました。
 父のモノが眼前に迫り『ぶつかる!』と思うと
 遠ざかりました。
 そのえんえんとした繰り返しです。
 お寺の鐘に顔を固定され、
 顔面を目がけて何度も何度も
 撞木をはなたれている状態を思い浮かべてください。
 それに父のモノと受精後4ヶ月の私では
 大きさが何十倍も違います。
 あの時の恐怖は今でも悪夢に見るほどです」


中出氏はこめかみの血管を浮き立たせながら続けた。
中出 「それから子宮内に乱気流が発生しました。
 強引に体を180度回転させられたのです」
小林 「私の想像ですが、お母様が
 180度体位をかえられたのではないですか?」
中出 「さすが秀雄くんだね。
 乱気流が起こる直前に
 『ふふっ、次は後ろから行くぞ!』
 という声がしました。
 正常位から後背位にされたのです。
 私という命を生み出しておきながら、
 自分の性欲を抑えきれずに結合してしまう。
 のみならず、後ろからも楽しんでしまう。
 私は再び叫んでいました。
 『お父さん、お父さん、やっ、やめて!!』。
 しばらくすると上の方から
 『死ぬ!』
 という叫びが聞こえました。
 こっちの方が死ぬかと思いました」
弟子 「ふう〜。
 でもこれでやっと恐怖から解放されたのですね」
中出 「いや、それだけではすみませんでした。
 失神状態から覚めると、
 子宮壁をドンドン叩く音がしました。
 そうです。
 戦いを勝ち抜いた精子がやって来たのです。
 彼は必死に入ってこようとしました。
 子宮壁に顔をつけ凄まじい形相でにらむのです。
 それでも入れることはできません。
 彼を迎え入れることは、
 すなわち私の死を意味するからです。
 どのくらいたったでしょうか。
 『くっ、苦しい!頼むから中へ・・・』
 といって口から泡を吹き死んでいきました」
小林 「・・・・」
中出 「なぜこんなことになってしまったのか。
 それは母が妊娠中にもかかわらず、
 情欲の黒い力をまき散らした父のせいなのです。
 精神的にも肉体的にも不安定な私がいるのに、
 前へ後ろへ前へ後ろへと突き続けました。
 おまけにバックからも攻めて生命を危険にさらしました。
 父殺しの願望というのは、
 フロイトのいうような母を
 独占したいがためのものではなく、
 生命の危機に陥らせた父への不信感、寂しさ、恨みが
 根本なのです」

二人はその真理の重大さに言葉を失った。
小林 「いやあ、まったくその通りだと思います。
 中出さん、お忙しい中貴重な、
 そして恐るべき体験談をありがとうございました。
 また機会を改め、その先をうかがわせてください」
中出 「そうですか。
 では、いつでも遊びに来てください」

小林先生と北小岩くんは、
東京行き最終の東海道本線に飛び乗った。
弟子 「それにしても凄まじい話でしたね」
小林 「うむ。
 精子の時からの記憶を持つ
 中出さんならではの魂の証言やった。
 考えてみれば生物はDNAという極小の単位でさえ
 遠い過去からのさまざまな情報が蓄積されている。
 ましてや母のお腹にいた頃のことは、
 リアルに思い出せる記憶としては持ち得なくとも、
 その記憶は脳や体のどこかに
 確実に存在しているはずやからな」
小林先生は自分の父の顔を思い浮かべながら、
厳しい面持ちで夜の車窓に目を移した。

2001-01-16-TUE

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