弟子 |
「先生、お願いがあります」 |
小林 |
「なんや、あらたまって?」 |
弟子 |
「先日、中出郁さんから精子の時のことを
おうかがいしたのですが、
その後どうなったのか気になって仕方ないのです。
もう一度、お会いすることはできませんか?」 |
小林 |
「そうか。
実はな、俺もその先を知りたかったんや。
ほな、いってみよか」 |
小林先生と弟子の北小岩くんは再び中出郁氏を訪問した。
中出氏とは精子の頃からの記憶を持つ男なのだ。
(詳しくは第四拾弐「記憶」をご参照ください) |
小林 |
「こんにちは。度々すみません。
先日のお話の続きをお聞きしにきました」 |
中出 |
「おっ、秀雄くんに北小岩くんか。
まあ上がってくれたまえ。
確かこの間は受精するまでを話したね。
それからね、とても辛い体験をしたんだよ」 |
弟子 |
「それは他の精子と戦って
勝ち残るよりも辛かったのですか?」 |
中出 |
「あの時とはまったく種類の異なる苦しみなんだ。
君はエディプス・コンプレックスを知っているかね」 |
弟子 |
「はい。子供が持つ同性の親への敵意のことで、
ギリシャ悲劇から命名されました。
男の子の場合は、母親を取り合う
ライバルである父親に対する
殺害願望という形を取ります。
フロイトの精神分析です」 |
中出 |
「そうですね。
だが、私はその分析に大いなる疑問を持っています。
なぜ男児が父殺しへの願望を抱くのか。
それは母を独占したいということではなく、
実体験による父への不信感からなのです」 |
弟子 |
「と申しますと?」 |
中出 |
「受精して3ヶ月、私は子宮の中で
至福の日々を過ごしました。
子宮にいると両親の会話が手にとるようにわかります。
父は母にも私にもとてもやさしかった。
お腹に口を近づけ
『男の子だったらキャッチボールしような。
女の子だったらお前が最後の恋人だよ』
というあたたい言葉をかけてくれました。
うれしかった。
この世に生を受けたことを神様に感謝しました。
それが4ヶ月を過ぎた頃に豹変したのです」 |
中出氏は突然怪談話の口調になった。 |
中出 |
「その日も子宮で夢見ごこちでした。
その時です、父の悪魔のささやきが聞こえたのは。
『なあ、そろそろいいだろう。
どうせもうできちゃってるんだから、
ナマで楽しもうよ』。
私は耳を疑いました。
母は
『もう遅いんだから寝ましょう』
とやんわり拒みました。
でも、すぐに父の中指が入ってきたのです。
私はできる限りの声で叫ぼうとしました。
『やめて、お父さん!』」。 |
小林 |
「お父さんはどうしましたか!」 |
中出 |
「私の声は耳に届きませんでした。
そのうちに母の呼吸も乱れてきた。
息が荒くなると体内の酸素が不足するので、
胎児まで苦しくなってしまうのです。
父はそれでもおかまいなしでした。
指より何倍も太いモノがねじ込まれてきました。
父のモノが眼前に迫り『ぶつかる!』と思うと
遠ざかりました。
そのえんえんとした繰り返しです。
お寺の鐘に顔を固定され、
顔面を目がけて何度も何度も
撞木をはなたれている状態を思い浮かべてください。
それに父のモノと受精後4ヶ月の私では
大きさが何十倍も違います。
あの時の恐怖は今でも悪夢に見るほどです」 |
中出氏はこめかみの血管を浮き立たせながら続けた。 |
中出 |
「それから子宮内に乱気流が発生しました。
強引に体を180度回転させられたのです」 |
小林 |
「私の想像ですが、お母様が
180度体位をかえられたのではないですか?」 |
中出 |
「さすが秀雄くんだね。
乱気流が起こる直前に
『ふふっ、次は後ろから行くぞ!』
という声がしました。
正常位から後背位にされたのです。
私という命を生み出しておきながら、
自分の性欲を抑えきれずに結合してしまう。
のみならず、後ろからも楽しんでしまう。
私は再び叫んでいました。
『お父さん、お父さん、やっ、やめて!!』。
しばらくすると上の方から
『死ぬ!』
という叫びが聞こえました。
こっちの方が死ぬかと思いました」 |
弟子 |
「ふう〜。
でもこれでやっと恐怖から解放されたのですね」 |
中出 |
「いや、それだけではすみませんでした。
失神状態から覚めると、
子宮壁をドンドン叩く音がしました。
そうです。
戦いを勝ち抜いた精子がやって来たのです。
彼は必死に入ってこようとしました。
子宮壁に顔をつけ凄まじい形相でにらむのです。
それでも入れることはできません。
彼を迎え入れることは、
すなわち私の死を意味するからです。
どのくらいたったでしょうか。
『くっ、苦しい!頼むから中へ・・・』
といって口から泡を吹き死んでいきました」 |
|
小林 |
「・・・・」 |
中出 |
「なぜこんなことになってしまったのか。
それは母が妊娠中にもかかわらず、
情欲の黒い力をまき散らした父のせいなのです。
精神的にも肉体的にも不安定な私がいるのに、
前へ後ろへ前へ後ろへと突き続けました。
おまけにバックからも攻めて生命を危険にさらしました。
父殺しの願望というのは、
フロイトのいうような母を
独占したいがためのものではなく、
生命の危機に陥らせた父への不信感、寂しさ、恨みが
根本なのです」
二人はその真理の重大さに言葉を失った。 |
小林 |
「いやあ、まったくその通りだと思います。
中出さん、お忙しい中貴重な、
そして恐るべき体験談をありがとうございました。
また機会を改め、その先をうかがわせてください」 |
中出 |
「そうですか。
では、いつでも遊びに来てください」
小林先生と北小岩くんは、
東京行き最終の東海道本線に飛び乗った。 |
弟子 |
「それにしても凄まじい話でしたね」 |
小林 |
「うむ。
精子の時からの記憶を持つ
中出さんならではの魂の証言やった。
考えてみれば生物はDNAという極小の単位でさえ
遠い過去からのさまざまな情報が蓄積されている。
ましてや母のお腹にいた頃のことは、
リアルに思い出せる記憶としては持ち得なくとも、
その記憶は脳や体のどこかに
確実に存在しているはずやからな」 |
小林先生は自分の父の顔を思い浮かべながら、
厳しい面持ちで夜の車窓に目を移した。 |