
- 長野県で生まれ育ち、岐阜県高山市に移り住み、
祖母と結婚し高山市で生涯を終えた父方の祖父は、
モールス信号の技術に非常に長けていたそうです。
しかし、それを祖父の口から聞いたことはなく、
父から教わりました。
終戦後しばらくして祖父は勲章を貰ったそうです。
帰宅してすぐ、それを幼かった父と叔父に
おもちゃとして与え、
勲章はすぐボロボロになったそうです。 - 優しく頑固で曲がったことは大嫌いな祖父でした。
自身の働きが、敵側とはいえ
人の死に繋がることも多々あったと
自覚していたからこそそうしたのかなと思います。 - また、当時の上官が祖父と同じ長野出身で、
祖父は上官に気に入られていたそうです。
ある日突然「厚木に向かえ」と転属を言い渡され、
何故だろうと思いながらも
上司命令は絶対の時代だったため、そのまま向かいました。
(そのときに祖父がどこで勤務していたのかは不明です) - 米軍の攻撃が他の拠点と比べて
少ないように感じていたと聞きました。
それでも、機銃掃射を受けたことはあったということです。
祖父は運良く大怪我をすることなく無事でした。
そうしてしばらく厚木基地で勤務していると終戦となり、
マッカーサーが来ました。 - そのときに祖父は、
「あの上官は、もしかしたらそろそろ戦争が終わることも、
要人が厚木に来ることも知っていたのではないか。
要人を迎えるための施設である厚木は
攻撃されないだろうと考え、
自分の生存確率を高めるために
厚木に異動させてくれたのではないか」と感じたそうです。 - 母方の祖父は広島出身で、家が貧しく奉公に出ていたそうです。
徴兵が来ても、最初は奉公先が役所に賄賂を渡してくれ、
逃れられていたらしいのですが、戦況の悪化に伴い徴兵され、
運良く人の死を間近で見ることはなかったものの、
船で移動しているときに
隣の船が突然砲撃を受け沈没するのを見て、
「ここで自分も終わりか」と
とても静かな気分になったと話してくれました。
祖父の船は無傷だったということです。 - 原爆投下時は
韓国にて蒸気機関車に石炭をくべる係をしており無事で、
岐阜県郡上市出身の祖母と結婚、
岐阜県岐阜市にて電車の運転手として定年まで勤めあげ、
世を去りました。 - 読んでくださってありがとうございました。
乱文ご容赦ください。 - (匿名さん)
2025-08-30-SAT

