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読者のみなさんから届いたお便り #20

 
長野県で生まれ育ち、岐阜県高山市に移り住み、
祖母と結婚し高山市で生涯を終えた父方の祖父は、
モールス信号の技術に非常に長けていたそうです。
しかし、それを祖父の口から聞いたことはなく、
父から教わりました。
終戦後しばらくして祖父は勲章を貰ったそうです。
帰宅してすぐ、それを幼かった父と叔父に
おもちゃとして与え、
勲章はすぐボロボロになったそうです。
優しく頑固で曲がったことは大嫌いな祖父でした。
自身の働きが、敵側とはいえ
人の死に繋がることも多々あったと
自覚していたからこそそうしたのかなと思います。
また、当時の上官が祖父と同じ長野出身で、
祖父は上官に気に入られていたそうです。
ある日突然「厚木に向かえ」と転属を言い渡され、
何故だろうと思いながらも
上司命令は絶対の時代だったため、そのまま向かいました。
(そのときに祖父がどこで勤務していたのかは不明です)
米軍の攻撃が他の拠点と比べて
少ないように感じていたと聞きました。
それでも、機銃掃射を受けたことはあったということです。
祖父は運良く大怪我をすることなく無事でした。
そうしてしばらく厚木基地で勤務していると終戦となり、
マッカーサーが来ました。
そのときに祖父は、
「あの上官は、もしかしたらそろそろ戦争が終わることも、
要人が厚木に来ることも知っていたのではないか。
要人を迎えるための施設である厚木は
攻撃されないだろうと考え、
自分の生存確率を高めるために
厚木に異動させてくれたのではないか」と感じたそうです。
母方の祖父は広島出身で、家が貧しく奉公に出ていたそうです。
徴兵が来ても、最初は奉公先が役所に賄賂を渡してくれ、
逃れられていたらしいのですが、戦況の悪化に伴い徴兵され、
運良く人の死を間近で見ることはなかったものの、
船で移動しているときに
隣の船が突然砲撃を受け沈没するのを見て、
「ここで自分も終わりか」と
とても静かな気分になったと話してくれました。
祖父の船は無傷だったということです。
原爆投下時は
韓国にて蒸気機関車に石炭をくべる係をしており無事で、
岐阜県郡上市出身の祖母と結婚、
岐阜県岐阜市にて電車の運転手として定年まで勤めあげ、
世を去りました。
読んでくださってありがとうございました。
乱文ご容赦ください。
(匿名さん)

2025-08-30-SAT

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶