
- こちらのコーナーにお便りを出すかどうか、
じつはずいぶん迷いました。
というのも、我が家は、まだ「戦後80年」ではないのです。
亡母は、樺太で生まれました。現在のサハリンです。
わたしがそのことをはじめて知ったのは、
たしか、小学3年生か4年生のころだったと思います。
学校の作文で、
おかあさんの子どものころの話を書くようにとの課題が
出されたときでした。
「おかあさん、外国の人だったの?」
と驚いて訊ねたわたしに、
そこがかつては日本だったことを教えてくれたのは父でした。
「ソ連(当時はまだソビエト連邦でした)に友だちいるの?」
「ソ連の言葉、しゃべれるの?」
矢継ぎ早に訊ねても、
母は困った顔をして「覚えていない」というだけで、
何も話してはくれませんでした。
「覚えていない」
という母の答えの後ろにあった
「思い出したくない」
という思いに私が気付くことが出来たのは、
それから十年以上経ってからでした。
きっかけは、祖父母が結婚50年を迎えた年に、
祖父が書いた手記を読んだことでした。
そこに綴られていたのは、戦前から戦中、戦後の日々でした。
母と伯母と叔父、祖父母の5人で穏やかに暮らしていた樺太が
突然戦火に包まれたのは、昭和20年の8月8日だったこと。
その年、戦火を逃れるために
引き揚げ船で北海道に渡ろうとするも、
当時の祖父の勤務先を占拠したソ連軍に拒まれて
叶わなかったこと。
その乗船出来なかった船は、北海道に上陸する直前で
ソ連の潜水艦からの攻撃を受けて沈没したこと。
ソ連兵が来てからの樺太での暮らしは食べるものにも事欠き、
雑草を煮て食べて、飢えを凌いでいたこと。
やっと北海道へ戻る許可がおりて、
引き揚げ船に乗船することが出来たのは、
日本が終戦を迎えた2年後の
昭和22年になってからだったこと。
淡々とした文章でした。
だからこそ、壮絶な日々だったことが伝わってきました。
樺太からの引き揚げ船に乗る時、
祖母のお腹には4人目の子供となる叔母がいたそうです。
今にも生まれそうな状態で、
周囲の人たちには心配されたとのこと。
それでも、絶対にこの船で帰ると言ったのは、祖母でした。
船が樺太を離れた直後に産気づいた祖母は、
船の中で女の子を出産。
船長さんが名付け親となり、船の名前から一文字とって
名付けてくれたそうです。
引揚船の中で生まれたその叔母も、昨年亡くなりました。
祖父母もすでに亡く、母も若くして亡くなっているので、
今では当時のことを知る手掛かりは、
祖父が残した手記だけです。
もっと直接聞けば良かった。
そんな思いもありますが、
けれど、辛い記憶をよみがえらせるようなことを
しなくてよかったとの思いもあります。
北海道で生まれ育ったわたしは、
縁あって4年前から宮城県で暮らしています。
こちらに転居して以降、
樺太に関する報道を目にする機会はほとんどありません。
そのことに、
疑問というよりむしろ寂しさを感じたわたしは今、
当時の樺太に関する資料や書籍などを
取り寄せて読んでいます。
当時の樺太の状況を知るほどに感じるのは、
運命は紙一重だということです。
もしも母が
最初に乗るはずだった引揚船に乗っていたならば、
樺太引揚三船殉難事件と呼ばれる事件の犠牲と
なっていたかもしれない。
昭和22年の引揚船に乗ることを祖母が諦めていたら、
北海道に戻れなかったかもしれない。
(北海道への引揚は昭和23年が最後となり、
帰りたくても船に乗れず
樺太に残らざるを得なかった人も多かったことを
後年になって知りました)
ほんの少し歯車が違っていれば、
わたしはこの世にいなかったのだと思います。
亡母が北海道に戻ることが出来て
「戦後」の暮らしがはじまってから、今年で78年。
樺太に縁あるものの一人として、
これからも、終戦の日とされる8月15日以降も続いていた
樺太での戦争のことを、忘れずにいようと思います。 - (匿名さん)
2025-09-10-WED

