
- 生きていたら今年100歳になったであろう
わたしの父は、19歳のときに召集されました。
新潟の稲作が盛んな農家の次男坊だった父は
18歳のときに一度兵役検査を受けてましたが、
身長が足らなかったということで乙種合格ということなり、
そのときは召集されませんでした。
すでに2歳上の長兄である叔父は召集されて
満州に赴任していました。
そして、19歳になった11月に赤紙が届き、
召集されました。
母である祖母は「あんたまで」と言って泣き、
父だった祖父は
ただ「しっかり奉公するように」と言ったそうです。
田舎は父の両親と4人の子供が残されました。
父も長兄と同じく満州に行くはずでしたが、
召集された昭和19年末には、
すでに日本は、
制空権も制海権も満州に兵隊を送るための船もなく、
父は湘南にある陸軍基地に配属されました。
あまり、当時のことは話さなかった父でしたが、
わたしが一緒にお酒が呑めるようになると、
酔いにまかせて
ぽつりぽつりと当時のことを話してくれました。
湘南の陸軍基地に配属されたこと。
来る日も来る日も塹壕を掘ったりしたこと。
上官に殴られたこと。
たまに、仲間と海に行ってはぼぉっと海を眺めたこと。
父は本土決戦要員として湘南の陸軍基地にいて、
そこで終戦を迎えました。
田舎に帰ったときは
母である祖母が大泣きで迎えてくれたそうです。
2年後に長兄も命からがら帰ってきました。
そして、何事もなく米作りに励んでました。
父はその後に上京し、
本が好きだったせいか出版社に勤め、母と知り合い結婚。
わたしと兄を育て上げて
定年まで休まずに勤め上げていました。
よく、新潟でお盆を迎えると
一升瓶片手に父は祖父祖母、
そして叔父叔母たちとお酒を呑んでました。
子ども心にも楽しそうだなと思いつつ、
わたしは新潟の自然の中で遊んでいました。
父と4歳下の母たちの青春時代、若さのあふれる時代は、
戦争がつきまとっています。
多くは語りませんでしたが、父が他界したあとに、
叔父たちに父の戦中戦後の話を聞き、
なんだかいたたまれない気になりました。
わたしは4年前に60歳になり定年退職しましたが、
おそらくわたしの両親世代が、今は90歳代となっていて、
少しづつ
太平洋戦争についての語り手がいなくなりつつあります。
それだからこそ、今、こうした機会を得て、
戦争を経験した親を持つわたしたちの世代は、
次の世代にきちんと事実を伝えることをしないといけません。
いまだ争いが絶えない世界です。
新聞やテレビを観てはうんざりする報道を見かけます。
残された世代が、あの時代の空気感をいかに後世に伝えられるか。
いまは、それが心配でもあり、大切なことでもあると思って、
今日8月15日の正午に黙とうしました。
このコンテンツができたことに御礼を申しつつ、
次世代にも必ず読まれることを切に希望しています。
(Takashi)
2025-09-29-MON

