
- わたしが同居していた祖父(父方)と、
母方の祖父の話を送らせていただきます。 - わたしが同居していた祖父は、
毎日夕方4時ごろからはじまる晩酌で
少しお酒がはいると、
いつも戦争で体験したことを話してくれました。 - 軍服を着て走った運動会。
靴がとても重くて、あの靴を脱いで走ったら、
おじいちゃんはきっと1等賞だったという話。 - フィリピンから日本へ帰るとき、
死体の山があって、
みんなの手帳を持って
帰って家族へ届ければよかったと後悔している、
という話。 - 毎日、夕方になると繰り返し話される話で
耳タコだったけれど、たぶんわたしは
戦争体験を生で聞く最後の世代なんだろうなと、
ぼんやり思っていたことを覚えています。 - おばあちゃんや母に手をあげる祖父でしたが、
いつもいろんなことを教えてくれた祖父のことを、
いま、とても思いだします。 - 母方の祖父は真逆で、
戦争のことをまったく話さない人でした。
いま写真をみると目が深い色をしているな、と感じます。
いまも母が大切にしている、
母方の祖父(母にとっては父)にいつも言っていた
「すべてはよいほうにいくから大丈夫」
の言葉の重みを感じます。 - 両祖父とも教員でした。
いろいろな葛藤があったのではないかなと想像します。 - 大学の友人の祖父は、逆に底抜けに明るすぎて、
そのさまが怖かったとか、
最近、話した知人は、あるお蕎麦屋さんで
おじいちゃんが聞いた事のない声をあげたと思ったら、
戦地で一緒に戦った仲間の方と再会した瞬間だったの、
と話して下さいました。 - 因みに、同居していた祖父が言っていた手帳は、
後に史学科の学生さんから「軍事手帳」ではないかと
教えていただき、祖父の想いを知りました。 - とりとめもなくて申し訳ありません。
太平洋戦争戦争の孫の世代には手触りがあり過ぎて、
恥ずかしながら、
戦争ものに触れるのが未だにヒリヒリします。 - でも、おじいちゃんのこと、知りたいです。
- (河北さん)
2025-10-07-TUE

