「福島なんて嫌だと思って去ったのだし、
実家はできれば帰りたくないと思って生きてきた。
それなのに、震災が起きてから、
自分の内側に郷里に対しても家族に対しても
愛情としか言いようのないものがあることがわかって、
それをやっと公表できるようになった」
古川日出男さんの言葉です。
「言葉と肉体」だけを頼りに生きてきた作家が、
その両方をフルに使い、54歳の身体に鞭打って、
夏の炎天下、福島の国道を19日間歩き通し、
秋になって隣の宮城に足を伸ばし、
総延長360キロを踏破。
人々の声に耳を傾けつづけ、
初のノンフィクション『ゼロエフ』を上梓しました。
その古川さんが3月6日、
ほぼ日の學校でお話ししてくださいました。
この模様をお伝えします。
古川日出男(ふるかわひでお)
第4回
「共に苦しむ」という視点
夏に福島の2本の国道あわせて
280キロを歩いた古川さんですが、
「まだ足りない」と感じて、
秋にもう一度、歩くことにしました。
その中心となったのは
宮城県南部の丸森町。
町の最南端は福島第一原発から
約43キロの土地でした。
丸森町を知ったのは一昨年10月の台風のとき。
被害がすごかった。もうひとつは、
シイタケ生産業を継いだ兄に取材したら、
2011年の3月に丸森のおが屑を使った
シイタケの菌床を調達することにしていたところ、
福島第一原発から北西に放射性プルーム(放射性雲)が
飛んで丸森町に放射能が降って、菌床が使えなくなった。
でも、丸森の人たちは3年ぐらい
賠償金をもらえなかったそうです。
福島県じゃないから。
広大な福島が「ぜんぶ」汚染されたことになる一方で、
福島じゃないと「汚染されてない」と言われる無茶苦茶さ。
そこを書かないで、
福島のことを書こうとしているおれって
最低だなと思っちゃった。
それに気づいて、宮城を歩くことにしたのです。
ちょうど干し柿の季節だった
丸森町を歩いたときはテレビの取材もなくて、
同行者とふたり旅だったから、
話をするとみんな正直な話をしてくれました。
2019年の台風19号のとき、
「郡山で阿武隈川の堰が切れてくれたおかげで
この辺はこの程度の被害で済んだ」って言うんです。
ぼくが素直に「郡山の出身です」って言うと、
「あ、ごめんなさい」って言われるんだけど、
ぼくは良かったと思った。
そうじゃなかったら丸森町はもっと浸水したから。
誰かがどこかで苦しい目にあうけれど、
それは他の地域の苦しみを減らしていることでもある。
そういう共苦=苦を共にするという在り方は
あると思うんです。
たとえば、いじめや病気、
悪と苦しみを全部なくそうとするけれど、
どこかで悪や苦しみを分け合わない限り、
ゼロにはならないからどこかで噴出する。
すると酷いことが起きる。それなら
小さな被害をみんなで分け合えればいいんじゃないか。
そんなことを阿武隈川を歩きながら考えました。
今回の作品で、古川さんは
複雑な思いを抱いてきた家族に
初めて言及しました。
それは震災がもたらしてくれたもの
だと語ります。
親族の名前を織り込んだ文章が書けるようになるには
震災から10年かかりました。小説家になって、
インタビューを受けたり、何かを書けと言われても、
子供時代や過去についてはしゃべらずにきた。
しゃべらなければ嘘をつかずに済むから、
そんな風にしゃべらずに生きてきたんだけど、
東日本大震災によって、自分の内側に、
郷里に対しても家族に対しても、
愛情としか言いようがないものがあることがわかった。
親の名前を織り込んで文章を書き、
人前で朗読できるようになる日がくるなんて
思っていなかった。
震災は悲劇だけれども、こんな側面もあった。
ぼくはあれがあったから、
やっとまともな人生に踏み込むことができた。
10年たった今、言えることです。
阿武隈川河口
いかがでしたか?
紋切り型の理解を徹頭徹尾拒んで、
肉体をフル稼働しながら言葉を模索する
古川さんの魂の旅路。
この語りを読んでいただいてから
新作『ゼロエフ』を読まれると、
さらに理解が深まると思います。
(終わり)
2021-03-14-SUN