主として「田舎の中小企業」を研究している
経営学者の三宅秀道先生が、
「ここ10年くらい、
ずーーーっと考え続けてきたこと」の一端に
触れる機会を得ました。
なぜ、経営学は「都会の大企業」ばかりを
学問の対象にしてきたのか?
そんな素朴な質問をしに行ったはずなのに、
先生の思考は、キリスト教の歴史など
遥か遠く(に思える)場所まで飛んでいき、
ふたたび「経営学」へと戻ってきました。
大宇宙を駆ける、ハレー彗星の軌道みたいだ。
ああ、人の脳みその自由自在よ。
全10回、担当は「ほぼ日」の奥野です。
三宅秀道(みやけひでみち)
経営学者、専修大学経営学部准教授。1973年生まれ。神戸育ち。1996年、早稲田大学商学部卒業。都市文化研究所、東京都品川区産業振興課などを経て、2007年、早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得退学。東京大学大学院経済学研究科ものづくり経営研究センター特任研究員、フランス国立社会科学高等研究院学術研究員などを歴任。専門は商品企画論、ベンチャー企業論、ファミリービジネス論。
- ──
- お金を儲けることがあさましい、とまで
考えが進んでしまうのは、
「総額一定」つまり
パイには限りがあるぞと考えているから。 - まさに先生のご著書のタイトルのように
「新しい市場をつくる」ことが、
そこでは、必要だということでしょうか。
- 三宅
- そうなんですが、これがなかなか難しい。
- 昔、人類学者の友だちが言ってたんです。
「限りある富」のイメージって、
田舎の人が
たまたま持っている偏見じゃなくて、
長い歴史的背景があるんだ‥‥と。
ようするに、農村社会では、
そう考えることが、むしろ合理的だった。
- ──
- コミュニティをうまく運営するために?
- 三宅
- そうですね。それはそれで、
社会を動かしてきた倫理体系のひとつで、
歴史的に見れば、
スタンダードな考え方だったんだ‥‥と。 - むしろ必死に努力した人は報われて当然、
みたいなプロテスタント的な倫理体系は、
近代の産物。
そういうふたつの考え方が存在していて、
たがいに誤解し合っている。
のみならず、
たがいに見下し合っていることさえある。
なんと不幸なことなのか、と。
- ──
- ふたつの経済倫理を実感したケースって、
具体的には、どういう瞬間でしたか。
- 三宅
- ある地方の焼き物職人さんが、
いま、自分がイノベーションを採用して
生産性を上げてしまったら、
他の誰かの雇用が失われるんじゃないか、
とすごく気を使っていたりとか。 - 自分の一挙手一投足が、
その地域の経済の配分を変えてしまうと、
本気で心配しているんです。
- ──
- なるほど。
- 三宅
- 本当は、都会でも原理は同じなんですよ。
ただ、都会は人が多くて分母が大きいし、
それなりに新しいことも起こるので、
誤差の範囲のように感じているだけです。 - でも、滅多にイノベーションが起きない
田舎の社会では、
それが、当たり前の感覚なんだなあって。
- ──
- ああ‥‥。
- 三宅
- 都会では、イノベーションが起こったら、
いっとき混乱するかもしれないけど、
何周か回って
経済のパイそのものが大きくなれば、
みんなが豊かになる。 - だからこそ都市が栄えてるわけですけど、
地方で焼き物をつくっている人は、
なかなか、そうは思えないんでしょうね。
- ──
- なにせ、水で戦争するくらいですもんね。
歴史をひもとけば。
- 三宅
- わかりやすいのは、まさしくそれですよ。
ちっちゃい泉しかない無人島で、
そこの水を独り占めにされたら大変です。 - 上限の決まっている資源の分け合いが、
生き死にをわけるときには、
そりゃ「平等に!」ってなりますよね。
- ──
- そういう話って、
日本特有の状況でもない‥‥んですか。
- 三宅
- はい。フォスターという文化人類学者の
論文に出てきますが、
中年米や南アジア、アフリカなど
西洋近代以外の地域では、
ずっと、そういう事情なんだと思います。
西洋近代だって、
農村に住む人たちはそっちでしょうけど。
- ──
- 都会と田舎が相互理解できておらずに、
蔑視し合っている状況って、
聞いているぼくらでも、
どうにかしたいなと思うわけですけど、
その問題意識自体は、
先生の専門の経営学の範疇なんですか。
- 三宅
- いやあ、こんな問題意識、
聞いたことがないんで困ってるんです。 - ふたつの経済倫理の違いが
相互蔑視をうんでいるみたいなことを、
いまの日本社会に当てはめて
研究している人を、
わたしは、わたし以外に知らないです。
知ってたら教えてほしいです。
- ──
- まさしく自分がそうだったんですけど、
田舎から都会へ出てきた学生は、
とりわけ悩ましい問題なんでしょうね。 - さっき「ダブルバインド」って、
先生も、おっしゃっていましたけれど。
- 三宅
- 有名な大企業のビジネスマンになって
活躍してみたいという欲求と、
お金儲けのために
努力するのはあさましいという考えと、
両方の間で揺れている学生も多いです。
- ──
- そうですか。
- 三宅
- いわば、アクセルとブレーキと両方に
足を乗っけて震えてる感じ。
きっと本人たち、悩ましいだろうなと。 - そのあたりを整理しきれないまま、
まわりの学生がやっているから自分も、
みたいな感じで就活している。
その状態は、やっぱり気の毒ですよね。
- ──
- そういう学生を前にして、
どういった言葉をかけているんですか。
- 三宅
- 大きな会社に行かなきゃダメよなんて、
そんなことは思ってないよ、と。 - でも、あなたの中に
お金儲けはあさましいみたいな感覚が
もし、あるとしたら、
それは、ゼロサム的経済観に縛られた
錯覚なんだよ‥‥って。
- ──
- あさましいなんて思う必要は、ないと。
- 三宅
- 高校のときの通知簿で、
5なんか取ったら少し不安になった、
3なら安心できて、
心地よかったという学生もいまして。
- ──
- はー‥‥。
- 三宅
- その学生だって、心のある部分では、
華々しい職業に就いて、
社会的に栄達したいと思ってもいる。 - だけど、今日、何回も言ってますが、
経済的社会的成功のために
努力することが、
他人の取り分から奪うこと、
盗むことだと思って育ってるんです。
- ──
- でも、「そうじゃないんだよ」と。
- 三宅
- 誰かの役に立ったから売れたわけで、
そうやって儲けたお金に、
後ろめたさを感じる必要はないよと。 - ズルさえしなければね‥‥って。
そのあたりが整理できれば、
心置きなく、努力できるんですけど。
- ──
- はたらくということの根本の部分で、
倫理的な迷いを感じていたら、
そりゃあ、いろいろつらいですよね。
- 三宅
- そこで、乱暴に
お金儲けを怖がってどうするんだよ、
なんて諭そうとしてもダメです。 - この世は悪にまみれているけれども、
悪に染まらないと生きていけない、
みたいな、変な誤解しちゃうんです。
- ──
- そこは丁寧に、寄り添わないと。
- 三宅
- そう思ってます。
(つづきます)
撮影:福冨ちはる
2024-12-10-TUE
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三宅先生は、研究対象としてなかなか注目されない
「田舎の中小企業」を見つめ続けてきました。
ふとしたやりとりのなかに、
その理由の一端が
理解できるかもしれない(?)くだりがありました。
先生が、この連載で話していることの、
ひとつの「補助線」になるかもしれないと思って、
先生のご許可をいただいて、
メッセージの文面を以下に転載させていただきます。
あの人はどうしてそこを見つめているのか、
誰かが何かをなす「動機」とは。わたしは、ちいさいころ、
親の「上昇志向」のプレッシャーをかけられて
ずいぶん苦しみました。
かなりのスパルタ教育だったと思います。
その理由は、イエの歴史をたどるとわかるんです。
うちの父親は、祖父が
いわゆる御妾さんに産ませた庶子だったんです。
だから、正妻の家庭への対抗意識が、
出世志向になったんだろうなといまでは思えます。
だからわたしも大学で上京するまでは、
親に叩き込まれたメリトクラシーを奉じてました。
他の価値観を知らなかったのです。※「メリトクラシー」とは、
「能力で社会的地位が決まる社会」のこと。
対する「アリストクラシー」は、
「血統で社会的地位が決まる社会」のこと。祖父は、社会的経済的に大成功した起業家でした。
そして祖母は祖父のだいぶ年下の御妾さんでした。
貧しい境遇からは這い上がれたかもしれませんが、
屈辱はあったと思います。
戦前の話ですが、
当時60歳の祖父に囲われたときの祖母は、
17歳くらいなんです。
そんな妾宅で育った父が、何としても社会的栄達、
経済的成功をつかみたがった原動力、
ルサンチマンの元は、そこにあると思っています。
われわれ子どもへの教育方針は、粗暴な根性論。
だからわたしは、ずいぶん無理やりに勉強をして
東京の大学(早稲田大学商学部)に入学したんです。
そういう背景があったので、わたし自身が、
人を押しのけて競争に勝つという欲望の奥底には
一体なにがあるんだろう‥‥と思いながら、
経営学をやってきたようなところがあると思います。