スポーツジャーナリストの石田雄太さんと
糸井重里によるスペシャルトークを
「前橋ブックフェス2024」でおこないました。
アスリートへのインタビューで
スポーツファンの支持を集める石田さんが
いま、もっとも求められていることといえば、
そう! 大谷翔平選手のことばでしょう。
根っからのスポーツファンとして、
元テレビディレクターとして、
それからライターの技術を磨いた職人として、
3つの視点を持つ石田さんが、
インタビュアーの姿勢を語ってくださいました。

>石田雄太さんのプロフィール

石田雄太(いしだゆうた)

1964年、愛知県生まれ。
青山学院大学文学部卒業後、NHKに入局し、
「サンデースポーツ」等のディレクターを務める。
1992年にフリーランスとして独立し、
執筆活動とともにスポーツ番組の構成・演出を行う。
著書に『イチロー、聖地へ』
『桑田真澄 ピッチャーズ バイブル』
『声―松坂大輔メジャー挑戦記』
『屈辱と歓喜と真実と―
“報道されなかった”王ジャパン 121日間の舞台裏』
『平成野球 30年の30人』
『イチロー・インタビューズ 激闘の軌跡 2000-2019』
『大谷翔平 野球翔年I 日本編 2013-2018』
『大谷翔平 ロングインタビュー
野球翔年 II MLB 編 2018-2024』などがある。

写真・木暮 伸也

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(4)ささやかな幸せを感じる瞬間は?

糸井
石田さんは、いわゆるファン気質からはじまった
スポーツライターですよね。
石田
はい、そうですね。
やっぱり野球選手が相手なら
真っ先に誰も知らないことを聞きたいというのが
元々の動機ですね。
本当は、聞いたところで終わりたいぐらい(笑)。
糸井
じゃあそこまでは、ぼくと一緒ですね。
石田
でも、なぜぼくが聞けるかというと、
仕事として聞かせていただいているので、
アウトプットしないわけにはいきませんよね。
聞きたいことを聞けたっていうぼくの満足感があれば、
大谷選手を好きな人たちにとっても
聞きたいことが聞けたって
思ってもらえるんだろうなあって。
そこの価値観はズレてないと思いながら、
まだこの話も聞いてない、この話も聞いてないと
考えながらインタビューをしていますね。
一定数は、野球以外のことを聞きたいって
思っている人もいるでしょうし、
そういう人たちが聞きたいことっていうのも
背負っているよなあとは思うんです。
実はぼく、大谷選手にインタビューするときに
必ず最後にしている質問があって。
「ちなみに今のささやかな幸せを感じる瞬間って
どんなとき?」って聞くんです。

糸井
へえー、いいですねぇ。
石田
その「ささやかな幸せ」っていうことばを
思いついた自分を褒めたいんですけど(笑)。
糸井
いやあ、ぼくも他人として褒めますよ。
素晴らしいですねえ!
石田
ありがとうございます。
その「ささやかな幸せ」ということを、
大谷選手はけっこう
大まじめに考えてくれるんです。
糸井
わかるなぁ、それは。
石田
アイスクリームを食べたことが思い浮かんだり、
チョコレートの話が出てきたりすることもするし。
今でいうと、デコピンの話が出てきたりもします。
そういう情報を求めている方々もいらっしゃるので、
バランスを取りながら聞いています。
この話は聞いちゃいけないというタブーは
誰に対しても持たないようにしていて、
聞けないことはないと思っているんですよね。
ただ、その質問を聞いた結果、
どんな答えが返ってくるかはわからないので。
聞きたいことを聞いて、
それに対してもらった答えっていうことには
価値があると思ってますからなんでも聞くんです。

糸井
ああ、いいですね。
石田
時間が許せば延々と聞いていたいんですが、
やっぱり限りがあるので、絞ってはいます。
野球の話、今年の話、
今の大谷選手はどんなメンタリティで
普段を過ごしているのか。
そういうトータルのバランスを考えて
聞かなきゃなっていうことが、
大変と言えば大変なことなのかもしれませんね。
糸井
大谷さんの話し方をよく表す
大谷文法がありますよね。
「~かなと思います」っていう。
つまり、断言はできないんだけれども、
暫定的に私はこういう答えを準備しているっていう、
生き方が現れているんだと思うんですよね。
石田
ああ、そうかもしれませんねぇ。
あとは「もちろん」っていうことばもよく使いますね。
糸井
ああ、「もちろん」もありますね。
石田
「もちろん、こうなんですが」
という、いわゆるエクスキューズですね。
自分がなにかを言い切ったときに、
その前提をすっ飛ばして解釈されると、
ちょっと違った響きを生んでしまうから。
糸井
そうですね。
石田
「もちろん◯◯なんですけど、~かなと思います」
みたいなしゃべり方っていうのは、
おそらく彼が身につけた技術ですね。
糸井
たぶん高校生のときから、
そうだったわけじゃないと思うんですよね。
石田
いや、でも高校生のときから
そういう感じですね、わりと。
糸井
あ、ずっとそうなんだ。
へえー、すごいなぁー!
石田さんは大谷選手の少年時代の話も
ご存知なんですもんね。
石田
ぼくが大谷選手へ最初にインタビューしたのは
高校3年生のときですけど、
はじめて見たのは高校1年生のときです。
その頃って、ほんとにヒョローッとした、
ほそーい、ほそーい少年でした。
その頃になぜ大谷選手を見たかというと、
大谷さんの高校の先輩である菊池雄星さんが
ドジャースに入るか入らないかという話があって。
糸井
はい、花巻東高校ですもんね。
石田
菊池雄星選手を高校時代に追いかけていた
ドジャースのスカウトの方がいて、
もうちょっとのところで
ドジャースが獲得できるかもしれないっていう、
ギリギリのところまで行ったんです。
ところが最後にひっくり返って、
菊池選手は日本の野球を選びましたよね。
ぼくはそのスカウトが
菊池選手を見ているところを
一緒に見に行く機会が多かったんですよ。
糸井
ああ、それもおもしろそうですね。
石田
獲得ができないと決まった日に、
スカウトの彼がショックで
飲んだくれているときに付き合って、
「こんなチャンスは二度とない!」
と言っていたんですよ。
ところがその半年後に連絡が来て、
「いやあ石田さん、すっげぇ選手が
花巻東に入ってきました!」って言うんですよ。
「いやいや、あなたが追いかけた
菊池雄星というのは、その程度の選手ですか?
半年後に、しかも同じ高校に
そんな選手がいるわけないですよ」
と返すんですが、それが大谷翔平選手だったんです。

糸井
菊池選手も相当すごかったわけですからね。
石田
菊池選手もアメリカに行くことを真剣に考えて、
それでもやっぱりいろんな影響を考えて、
その夢を封印して日本に残ると決めました。
糸井
西武に行きましたもんね。
石田
結果的にドジャースのスカウトは
涙をのんだわけですが、
そのわずか半年後に
「じゃあ一緒に見に行こう」となって。
糸井
おもしろいなぁ、それ。
石田
それで花巻まで見に行ったら、
ヒョローッと背の高い少年がいたんです。
糸井
その頃にはもう185㎝ぐらいあったわけですね。
石田
いや、もっとあったと思いますね。
糸井
ああ、ほんとですか。
石田
それを見たスカウトは
「これはすっごいピッチャーだ!」って
もう興奮しているわけですよ。
両腕がスーッと、鶴みたいに上がってきて、
その腕のしなり方がもう末恐ろしくて。
ぼくでさえびっくりしました。
糸井
おもしろいなあーっ!
石田
そこから3年間、
スカウトは花巻東高校に通いつめました。
実際に大谷選手も「アメリカに行きます」って
言っていましたからね。
それはドジャースを指していたと
ぼくは思っていますが、
彼がそう言ったのにはちゃんと理由があって、
そのスカウトが3年間見続けていたんです。
特に彼がケガをした高校2年のときに、
日本のプロ野球のスカウトが
みんな離れた時期があったんですよ。
糸井
ああ、ああ。
石田
日本のスカウトがほとんど見にこない間も、
そのドジャースのスカウトだけは
3年間ずっと見続けた。
それが大谷選手にとっては
すごくモチベーションになっていたんです。
糸井
ケガしていても見てくれる人がいたんだ。
しかもメジャーのスカウトが。
石田
先輩の菊池さんはアメリカに行かなかったけれど、
自分にはそのチャンスがあるということで、
「アメリカに行きます」と一度は言った。
当時の大谷選手にも、花巻東の監督さんにも
インタビューをさせてもらって、
そこで感じたことがあるんですけど、
思考の順番や考え方をとっても、
ぼくの30歳下っていうのは
こういうカルチャーなんだなって、
驚かされることがいろいろありましたね。
ぼくはよく、大谷選手って変わりましたかと
聞かれることがあるんですよ。
プロに入ってから、メジャーに行ってから、
こんなにすごい選手になってから、
大谷選手は変わったかと聞かれるのですが。

糸井
同じ?
石田
はい、根本的なところは
変わっていないんじゃないかなって
いうふうにしか思えないんですよ。
でないと、ここまで来られないと思うんですね。
糸井
そうですね。
石田
18歳っていう年齢をナメちゃいけない。
高校生ぐらいの年っていうのは、
それなりのことを考えて
自分に向き合っているんだなって
教えてもらった相手でしたね。
その意味でも、ものすごく新鮮な選手でした。

(明日につづきます)

2024-12-15-SUN

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