日本のすばらしい生地の産地をめぐり、
人と会い、いっしょにアイテムをつくる試み。
/縫う/織る/編む/」。
「桑都(そうと)」と呼ばれる八王子で、
技術のつまった風通織のストールを作ってもらいました。

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「/縫う/織る/編む/」 日本のテキスタイルのほんとうの面白さを求めて。株式会社糸編 代表 宮浦晋哉さん 文化・ファッションテキスタイル研究所  所長 宮本英治さん 対談

今回、ご紹介する産地は、
東京都の多摩地域南部に位置する八王子市。
このプロジェクトにいつもアドバイスをしてくれる
(株)糸編の宮浦晋哉さんが、
いまの活動をはじめるきっかけとなった人物と
出会った場所です。

その人物とは、テキスタイル界のレジェンドで、
元「みやしん」代表の宮本英治さん。
「みやしん」は多重織りや空羽プリーツなど
独自の技術を生み出したテキスタイルメーカーです。
ヴィクトリア&アルバート美術館や、
ニューヨーク近代美術館などにも収蔵されている
宮本さんがつくったテキスタイルは、
革新性と独創性に富んでいます。

「革新の連続の結果が伝統であり、
革新継続の心は伝統より重い。」
「みやしん」は2012年に惜しまれながら廃業しましたが、
宮本さんは、自らの考え方や技術を後世に継承しようと
文化・ファッションテキスタイル研究所の
所長を務めておられます。

八王子産地をめぐる前に、
宮浦さんと宮本さんに、
織物と産地のお話をたっぷりうかがいました。


文化・ファッションテキスタイル研究所とは
「糸編」のルーツが、ここに。

──
宮浦さんが運営する「産地の学校」などの活動には
宮本さんとの出会いが大きく関わってる、とうかがいました。
宮浦
僕が初めて宮本さんのところにお邪魔したのが、
2012年から2013年ごろの、「みやしん」から
文化・ファッションテキスタイル研究所になる
入れ替わりの時だったんですよね。
──
宮本さんが、織物メーカー「みやしん株式会社」を廃業して、
文化・ファッションテキスタイル研究所という
教育機関に転身される、そのとき。
宮本
そうそう。宮浦さんは新聞記事で
うちが廃業するっていうのを
知ったんだよね。
宮浦
そうなんですよ。
業界のニュースとして
かなり話題になりました。
記事で「いいものづくりをしてるだけじゃ残れない」
っていうお話をされていて、
それが刺さったんですよね。
それってどういうことなんですか? って聞きたくて。
ぜんぶの話が勉強になると思って。
突然、飛び込みでうかがいました。
話はその日で終わらなくて、何回もお邪魔して。

宮本
そのとき、宮浦さんがしていた話が、
デザイナーとテキスタイルの産地を
うまく結べないか、みたいなことだったよね。
宮浦
はい。
宮本
いきなりそんなの無理だよ、
そんな甘い考えじゃダメって。
日本全国、産地がうんとあるんだから、
産地一つひとつ行って
勉強しなさいって言ったんだよね。
それで、私がつくった日本の産地のマップを渡して。
それからね、宮浦さんが産地行きだしたのは。
宮浦
そうなんです。
ありがとうございます。
あれからずっと産地を回ってます。
──
それから10年以上ですよね。
宮浦さんを見ていてどうですか。
宮本
いや、がんばってるなとは思いますよ。
こんなにがんばるとは思ってもいなかった。
織物って、無限の可能性がある。

──
「みやしん」は、宮本さんのご実家ですか。
宮本
1947年に親父が創業したんですが、
その当時は女物の着物を作ってたんです。
その後、男物の着物に、
1970年代後半から服地の開発に着手しました。
私がこの会社に入ってからですね。
服地の開発が本格的に始まったのは、
1980年代のはじめですね。
──
「イッセイ ミヤケ」とのお仕事が知られてますけど、
最初は三宅一生さん側から依頼があったんですか。
宮本
いや、私が売り込みに行きました。
工場で、さまざまな開発をしていたんですが、
実際にはなかなか販売に繋がらず、
いいかげんに仕事に結びつけろよみたいに言われて。
どこに売り込もうかって考えたときに、
自分の好きなファッションブランドで、とか、
ちょっと凝った服を作るブランド、とか
服地の価格のことも考えたら、行き着いた先が、
「イッセイ ミヤケ」だったんですよ。
最初の生地は麻とウールの二重織りでした。
──
楽しかったですか?
宮本
あ、これが自分の天職なんだな、
みたいに感じたことはありましたね。
──
大学を卒業されて、すぐにご実家の手伝いを?
宮本
いえ、最初は、
まったく違う業界で仕事をしていたんです。
その業界に5年間ぐらいいたんですが、
その当時の実家は男物の着物がすごく忙しくて、
「おまえ、もうそろそろ戻ってきて手伝えよ」
みたいに、親父に言われてね。
まあいいタイミングかなって、戻って。

──
テキスタイルの勉強はどうされたんですか?
宮本
まったくの独学ですね。
テキスタイルの開発を実際にやろうとしたのが、
そうですね、27、8歳だったかな。
同年代の八王子の二世っていうか、
織物工場の後継者たちは、
ほとんどが中学卒業後、高校は
都立八王子工業高校へ行って勉強してたんですよ。
地元の工業高校に入学し、
紡織科とか染色科とかで基礎の勉強を3年間やって、
それから実家に入るというのが、
全国の産地後継者の当然の進路でしたね。
それを考えると、15、16歳ぐらいから
スタートした人に対して、
10年以上遅れてのスタートになるんです。
その遅れを取り戻すには、
寝ないで勉強する、っていう気持ちでね。
なんでもかんでもがむしゃらに、
独学で勉強した。
──
独学が宮本さんに合っていた。
宮本
好きに学べるからね。
織物のこと、染色のこと、加工のこと、
繊維のこととか、
ほぼすべてを独学で学んだんですね。
そんな中で、私の独学の柱になったのは
織組織なんですよ。
織組織によって、
様々な表情を持ったテキスタイルが生まれる。
それに加えて繊維とか、
染色とか加工とかを加えてやっていく。
宮浦
宮本さんの織物は、
本当にかっこいいんですよ。
信念があるっていうか、ほんとに、他にはない。
無縫製立体成型織っていう、
縫わずにスカートや
ワンピースになっているものや、
組織の作りで伸縮性を出した空羽プリーツとか。
発想が他とは違いますよね。
宮本
織物って、無限の可能性があるんですね。
私が基本とするドビー織物って、
経糸と緯糸がそれぞれ12本ずつ。
ということは、タテとヨコの交差する点は、
12×12で144箇所あります。
その144箇所の交差点をどう組み合わせるか、
と考えると、
その数は約2230正、すなわち約281兆の3乗となります。

ーー
想像するのも難しいような数ですね‥‥!
宮本
ね、ほぼ無限でしょ?
そこにさらに、
糸の太さや種類・密度・加工なども考えるわけだから、
可能性としたら、なんでもできるんだよね。
産地を残さなくちゃいけない。
──
みやしんさんは織物メーカーとしての活躍と同時に、
全国の産地のための取り組みもされてたんですね。
宮本
日本のテキスタイル産地って、
戦後の高度経済成長時代に向かって、
大量生産型になって、分業制が進み、
いろんな分野の人たちが
産地の分業を形成していったんですね。
だけど今、産地形成がほんとに難しくなってきた。
撚糸、糸、染色、織物、加工など、
いろいろな業種があるじゃないですか。
その中で一つが傾くと、
次々と産地形成自体が崩れてしまうんですよ。
それで、産地を残さなくちゃいけないって思って、
「テキスタイルネットワークジャパン」っていう、
全国の産地のテキスタイル職人の合同展示会の
立ち上げに関わったんです。
産地が継続できるように、という思いでね。
「みんな、がんばってよ」って言いながら
展示会をやってた感じでしたね。
──
若いデザイナーへのバックアップもされて。
宮本
もうずっと昔、1990年代の中ぐらいかな、
「ニューウェーブデザイナー21(NWD21)」
というグループを立ち上げたんですよ。
若いデザイナーにがんばって伸びてもらいたくて。
その頃、日本の繊維産業が右肩下がりになってきた。
どうやったら戻るだろうかって考えたら、
ファッションの世界では、若いデザイナーたちが海外に進出して、
それに引っ張られるように
日本のアパレルが海外で求められるようになる、
そういう形になればいいなあと。
三宅一生さんや山本耀司さん、
川久保玲さんの御三家が
海外でがんばってたけど、そのあとが続かない。
そういう状況があったんですよね。
それがいまだにですけどね。

──
たしかに、そうですね。
宮本
御三家に続くデザイナーが出れば、って、
自分で若いデザイナーを集めたんですよ。
出たり入ったりしたけど、 2、30人ぐらいいたかな。
若いデザイナーって、オリジナルのテキスタイル、
なかなか自分ではつくれないわけですよ。
最初はそこを応援しようって。
それぞれのオリジナルのテキスタイルをつくろうと。
みんながやりたいようにつくって、展示会をやって、
売り上げを増やして、さらには海外に出てもらいたい、
そんな思いでやったんです。
その中に皆川明さんとかね、
パトリック・ライアンさんとか、
小林シゲキさんとかがいて、巣立っていきましたね。
宮浦
みやしんさん以外にもどなたかと一緒に?
宮本
いやいや、わたしひとりで。
うちだけで。
宮浦
えー、すーごいですね。
手間ばっかりで売り上げにならない部分ですからね。
宮本
そうそう、売り上げにはならないよね。
宮浦
「テキスタイルネットワークジャパン」のときも、
宮本さんのお客さんを呼んで、
産地の人たちに紹介しちゃったんですよね。
宮本
自分で立ち上げた以上、
お客さん来ないと困るじゃないですか。
産地の人たちのテキスタイルを買うような
デザイナーとかアパレルメーカーに来てほしくて、
うちのお客さんぜんぶ呼んだんですよ。
そしたら、ほんとにうちの仕事、なくなったよ(笑)。
宮浦
すごい、種まきですよね。
宮本
そうそうそう。
産地全体とか業界全体によくなればいいって
思ってのことなんでね。
デザイナー×産地から生まれるもの。
──
宮浦さんがやっていらっしゃる
「産地の学校」も、種まきですね。
宮本
そうですね。
宮浦
宮本さんとの話はいつもヒントになって、
なにか始めるときにきっかけになるんです。
「産地の学校」もそうですし、
コロナ中に始めた、「TEXTILE JAPAN」っていう、
各産地から集まってもらった合同展示会も
宮本さんの「テキスタイルネットワークジャパン」展が
イメージにありましたね。

──
ご相談はよくされるんですか。
宮浦
「産地の学校」のときは、相談はしましたね。
「産地の学校」の、1期生の初日の開講式で、
宮本さんに特別講義をしていただいたんですよね。
皆川明さんも来てくださって。
──
宮浦さんは、大学などでも教えてらっしゃいますよね。
宮浦
特別講義をやってくれといろんなところから声をかけていただいて、
10年ぐらい前からやっていますけど、
年々増えてきていて、
今、年間50回以上しています。
行くと、学生たちはテキスタイルにものすごく興味があるんですよ。
学生の中で、産地に就職したいと思う人も増えています。
「産地の学校」からも累計で20人ぐらい、
産地に就職しているので、流れは感じるんですね。
──
「産地の学校」は、これからどう展開するんでしょう。
宮浦
「産地の学校」も年々、受講希望者のエントリー数が増えて
認知が広がってきたので、
次に何をするべきなのかを考えています。
浅く広くテキスタイルを教えるプログラムをやるだけじゃなくて、
たとえばテキスタルデザイナー育成コースとか、
職人になりたい人のコースとか。
宮本
そうだね、やっぱり深掘りしないとね。
産地に入って後継者を目指す人だったら、
それなりに学ばなくてはいけない
基礎みたいなことを、
しっかりと教えなくちゃいけないだろうし。
アパレル業界でテキスタルデザイナーとしてやりたいなら、
産地のこと、染色のこと、加工のことも知らないと。
ある産地で何か作って完結じゃなくて、
そのできあがったものをほかの産地に、
例えばあの加工屋さんに持っていったら、
もっと良くなるんじゃないかとか、
そういう知識もちゃんと勉強しておくといい。
デザインとテキスタイルをどう組み合わせるか。
デザイナーや、あるいはアパレルの
テキスタイル企画をする人が
産地を理解して、
ときには産地の人たちの勉強を助けるとか、
そんなことも必要になってくるんじゃないかな。
宮浦
それ、真のテキスタルデザインですよね。
日本のテキスタイルのほんとの面白さがここにあると思う。
産地とデザイナーとの関係性も含めて。
それを海外に向けて発信したいですよね。
生き延びるために、
まだまだ、やりようがある。
宮浦
今回のほぼ日さんみたいに、
積極的に産地の取材をしていこうっていう、
こういう会社さんも増えてきてると思うんですよ。
そこからの発信で、エンドユーザーも興味が湧いて、
デザイナーたちも産地ともっと近しくなるといい。
教育もそれを追う感じでテキスタイルをやってくれれば。
──
実感されてるところがあるんですね。
宮浦
アフターコロナのタイミングで、
改めて産地っていうものを見たい、取材したい、
モノづくりがしたいっていう人が増えてきていて、
転換期に来たなと感じる部分はあります。
だからまだまだ、やりようがあるのかなと僕は思ってます。
──
産地に近いところでも動きはあるんですか。
宮浦
宮本さんがやられてきたことを継承してる、
遺伝子を受け継いでる人はいるんですよ、各産地に。
テキスタイルデザインを突き詰める、
宮本さんイズムを持ってる人がいて、
今、がんばってる。
宮本
とあるアパレルメーカーさんとは業務委託していて、
そこの全社員教育を毎月1回ずつやろう、
っていうことになりました。
──
全社員ですか、すごいですね。
宮本
うん。全社員がここに来るんです。
20人から30人ぐらいの規模でここへ来て、
それを毎月1回やろうって。
宮浦
すごいなぁ。気合入ってますね。
いいですね、そういうアパレルさん。
──
産地に興味を持ち始めた会社に対して、
何を期待されますか。

宮本
そうだねえ、産地の業者としたら、
細くてもいいから継続して仕事欲しいんですよ。
いいとこだけつまんで、パッといなくなっちゃう、
そこが一番問題だよね。
産地によって特色がみんな違うでしょ。
ウールの産地、綿の産地、麻の産地、って。
シーズン中はどんどん注文して納期をせかして、
季節が変わったら次の産地に移っちゃう、
これでは、産地は困るんですよ。
──
そうですよね。
宮本
それをアパレルメーカーが
わかってくれないとね。
「イッセイミヤケ」は、
三宅一生さん本人がわかってくれていたんですよ。
継続的に仕事ができるように、
一生さんは、産地や業者の状況を
しっかりと見てくれていましたね。
宮浦
僕、最近もヨーロッパに行ったんですけど、
ほんとにもう、日本の素材が大人気で。
今、日本の素材がすごいって認められてるのは、
宮本さんや、先輩たちがやられてきたことが
結果としてあらわれてるんですよね。
──
日本の産地の生地が海外で評判がいいのは、
どうしてなんでしょうか。
海外でもいいものはたくさんあると思うんですけど。
その中でも日本が選ばれるっていうのは? 
宮浦
職人の仕事ですよね。
やっぱり職人芸みたいな、ここにしかないっていうのが
一番みなさんおっしゃられるところなんです。
メゾンブランドに入ってる螺鈿のものとか、
柿渋染めとか絞り染めとかがそうですね。
日本でしかできない技術がある。
宮本
海外で評判とったり海外から注文が来たりしても、
それが継続してできるかどうかっていうこと。
それを考えると、やっぱり問題は
産地の分業形成を維持できるかどうか、なんですよ。
宮浦
だからこそ、国内であれ海外であれ、
細くても長い関係性をつくっていかないと、ですね。
宮本
そうだね。
そこが大事だよね。
──
ありがとうございました。

(宮浦さん×宮本さん  おわりです)

明日は、織物工場の、
澤井織物さんのインタビューをお届けします。

2024-10-07-MON

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  • 販売日|2024年10月17日(木)午前11時より
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