

こんにちは、ほぼ日の奥野です。
2025年の4月なので‥‥
えーと、ま、1年以上前になるんですけど、
石見銀山の町をめぐってきたんです。
石見銀山でうまれ、いまや全国に展開する
群言堂の松場忠さんにご案内いただいて。
その後、えー、いろいろ立て込んでしまい、
原稿にまとめたのが最近なんですけど、
驚いたことに、いまでもまぶしいんですよ。
石見銀山の思い出全体が。
いい町で、いい人たちに出逢ったなあって。
あの日のまぶしさとうれしい気持ちが、
できるだけそのまま伝わればいいのですが。
松場忠(まつばただし)
1984年、佐賀県鹿島市生まれ。株式会社石見銀山群言堂グループ 代表取締役。佐賀県立鹿島高等学校卒業、文化服装学院シューズデザイン科卒業。シューズメーカーで靴職人として勤務。その後、骨董屋で店番をしながら、靴の企画の仕事を一人で始める。その後、妻の両親が経営していた株式会社石見銀山生活文化研究所(群言堂)に入社。飲食店の立ち上げ、広報、新ブランド設立などを担当し、2019年、地域観光に特化した株式会社石見銀山生活観光研究所を設立。2022年、株式会社石見銀山群言堂グループ代表取締役に就任。2024年、行政と連携した地域経営をテーマに株式会社石見銀山地域経営研究所を設立。
- ──
- 石見銀山の銀の産出量って、
たしか江戸時代がピークだったんですよね。
- 松場
- はい。最盛期には、
世界の産出量の3分の1を産出していたと
言われています。 - いまから400年くらい前の話ですが。
- ──
- ひぇ~、世界の「3分の1」!
- 松場
- 500年前に石見銀山が発見されたときは、
博多商人の神屋寿禎が
船で海を渡っているときに、
石見銀山の仙ノ山が光って見えたという。
- ──
- たくさんの銀が露出していて?
- 松場
- そう。昔の話だから
尾ひれがついているかもしれないですが。 - とにかく、そこから鉱山開発がはじまり、
利権化し、領土戦争などを経て、
徳川幕府の重要な財源になっていきます。
そうやって
何万人という人口の町として栄えて、
「百か寺」といって
お寺も100箇所くらいあったそうですね。
後世になってから、
オランダのジンボトルが出土したり‥‥。
- ──
- つまりオランダからの舶来品が届いていた。
この、石見銀山まで。
- 松場
- そうなんですよ。
- ──
- 海のない栃木県の日光のスーパーで、
サメが売ってるのを見かけたことがあって、
妻の出身地なので聞いたら
「さがんぼ」と言って、煮付けとかにして、
よく食卓に上っていたそうです。 - 日光のとなりの、
自分の出身地の桐生では見たことないのに。
徳川の日光東照宮があったからなのか、
人がたくさん集まるところには、
思いもよらないものが届いてくるんだなと。
- 松場
- オランダのジンボトル、ですからね。
- 石見銀山では、
その後、400年前に最盛期を迎えて、
一説には「20万人」が暮らすわけですが、
やがて銀が採れなくなると、
人口も、どんどん減っていくんです。
- ──
- 具体的な数というのは‥‥。
- 松場
- 20年くらい前で約500人。
- いまは、だいたい400人くらいです。
ただそれ以上は減りにくくなってきていて、
現在では、
じょじょに世代交代しつつある状況です。
- ──
- 忠さんが石見銀山へはじめて来たのって、
いつだったんですか。
- 松場
- 2007年に世界遺産に登録される少し前の、
2005年です。 - 妻とつきあいはじめたことをきっかけに、
はじめて訪れました。
だから、もう20年くらい前ですね。
それまでは
石見銀山も群言堂も知らなかったんです。
- ──
- そのときの印象は、どんな感じでしたか。
- 松場
- すでに群言堂の本店はできていましたし、
町並みは、
まだちょっと整ってはいなかったけれど、
昔ながらの風景の中で、
おもしろい商売、
クリエイティブな仕事が成立してるなと。
- ──
- 奥さまのご両親の世代が、
すでに石見銀山の町を変えていく仕事に
取り組みはじめていたと。
- 松場
- はい、ぼくの義理の両親、
松場登美さんと松場大吉さんのふたりは、
町づくりに取り組んだ第2世代。 - その上の第1世代が、
まず石見銀山の町並みを保存するための
文化財保存会を立ち上げました。
銀山が閉じたあと、
みんながどんどん都会へ出ていくときに、
この町をどうにか残していこうと。
- ──
- なるほど。
- 松場
- そんな第1世代の背中を見ながら、
登美さんや大吉さん、
石見銀山を拠点に、義肢をつくっている
中村俊郎さんなど第2世代が、
この町で事業を興していったんです。
- ──
- それが、群言堂さんであり、
義肢で有名な中村ブレイスさんであると。
- 松場
- みなさん、両親や地域の先輩方から、
この町が栄えていたころの話、
この町の歴史的な価値を聞いていたので、
何とかしたいと
当たり前のように思っていたんです。
- ──
- ちなみに、世界遺産に登録された理由は、
「すごい銀山」としての、
それまでの石見銀山の歴史が認められて、
ということなんでしょうか。
- 松場
- じつは石見銀山って、
いちど世界遺産の選に漏れているんです。 - 当時のユネスコの見解としては、
かつて世界の3分の1の銀を採っていた、
その経済的な価値だけで
世界遺産として登録していいんだろうか、
というものでした。
でもその後、あらためて
選考委員の方々がいらっしゃったときに、
昔ながらの町並みが残されていて、
かつ、
そこに人々の暮らしがいまもあるという
文化的景観を評価してくださったんです。
- ──
- なるほど。
- 松場
- 世界を見渡してみても、
多くの鉱山は、採掘しきってしまったら、
あとは「ハゲ山」しか残らないケースが
ほとんどなんです。 - その点、ここ石見銀山では
きちんと植林をして、
緑の鉱山として自然が残されていました。
経済的価値と文化的景観と自然との共生、
その3つの価値をもって、
世界遺産として登録しましょう‥‥と。
- ──
- それが、2007年。
- 松場
- はい。非常に話題になりました。
- ──
- ですよね。ぼくも覚えてます。
外から観光客が押し寄せるようになった。
- 松場
- 原宿の竹下通りみたいでした。一時は。
- ──
- ひええ。竹下通りってマジですか。
- 牛がみっつで「ひしめき合う」ですけど、
いま竹下通りってそんな感じだけど、
じゃあ、もう、あんな感じで。
- 松場
- はい。大げさでなく、すごい人でしたよ。
もちろん、
竹下通りは竹下通りで素敵なんですけど。
- ──
- ええ。でも、
この町にいきなり竹下通りができてもね。
- 松場
- そうなんです。
- そういう状況を受け入れてきた地域では
もちろんないので、
住んでるみなさん、びっくりしちゃって。
- ──
- ふつうに生活している場なわけだし。
- 松場
- そうなんです。
- ──
- その、ある意味で「異様な大ブーム」は、
いつまで続いたんですか? - 松場:世界遺産への登録前後に大きな波が来て、
ピーク時は年間で約80万人。 - そこからゆるやかに減少していって、
だいたい10年くらいで、
世界遺産登録前の水準に戻りました。
- ──
- つまり、現在のような‥‥
昨日とか今日のような静かな町並みに
戻ったのが、
世界遺産登録の10年後。
- 松場
- コロナ禍を挟んだので、
その後にもっとガクンと落ちるんですが、
現在は、だいたい
世界遺産登録後から10年くらいの感じ、
もしくは、それより
もう少しよくなってきたという状態です。
- ──
- では、忠さんが、
本格的に石見銀山に生活しはじめたのは。
- 松場
- 2013年です。
世界遺産登録から6年ほど経ったころ。
(つづきます)
2026-06-05-FRI
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東京をはじめ全国30箇所以上の店舗を展開する
アパレルブランド群言堂の創業者・
松場登美さんが、
愛犬・フレンチブルドッグの福ちゃんとつづる、
石見銀山の暮らし。何気ない日常。
ぼくは旅から帰ってきてから読んだんですが、
すっかり「郷愁」にかられました。
滞在していた2日間も、
町をぶらぶら歩いていると、
おさんぽする登美さん&福ちゃんを見かけたり。
訪れる前に読んでも、帰ってきてから読んでも、
どっちも素敵な読書になると思います。
どっちにしても、石見銀山が恋しくなる本です。