ほぼ日が気仙沼とご縁ができ、
何度も行き来するなかで、菅原市長と
お会いする機会がたびたびありました。
落語会「気仙沼さんま寄席」の
はじまりも、市長と糸井の話がきっかけでした。
市長が現職に就かれたのは震災の前年、
そして震災後11年経った今も、
市長として気仙沼市を導いておられます。
甚大な被害を受けた気仙沼が、
どのようにして現在の姿になったのか、
復興をずっと見続けてこられた市長だからこそ
語れる言葉がありました。
このときの続きのようなインタビュー、
担当はほぼ日の藤田です。
※インタビューは2月末にZOOMで行いました。
写真は、3月に現地で撮影したものです。
- ――
- 縁という言葉について、
もう少しうかがってもよろしいですか。
- 菅原
- 我々がこの縁をどのように大きくしてきたか、というと、
まずは市民が外から来る方達と
どうお付き合いをしたらいいのか、
少しずつ学んでいったということと、
あとは市として人材育成をすることによって、
レスポンスのいい人材を増やしていったことが相まって、
現在があると思っています。
これは個人的な考えですけど、
縁というのは、何か目に見えない存在によって
仕組まれているのではないか、と思うことがよくあります。
- ――
- 仕組まれているもの。
- 菅原
- ええ。繋がる町とはいろんな形で繋がるんですね。
商店街同士でも繋がる、
行政同士でも繋がる、個人でも繋がる。
そして10年も経つと、
我々の間にはもともと赤い糸があったんだとも感じてしまう。
縁があるところはどんどん繋がっていく。
だから遠慮しないで、
どんどん繋げていくことが大事だと思うんです。
- ――
- 繋がる人とは繋がるから、ということですね。
レスポンスのいい人材を育てる、
ということを伺いましたが、
気仙沼は世界三大漁場と言われる三陸沖が目の前にあり、
遠洋漁業によって海外のさまざまな場所と
繋がりのある方が多いと伺ってます。
もともと閉鎖的ではなく開かれた心のようなものが、
地域性としてあるのではないかというふうにも
想像したんですけども‥‥。
- 菅原
- そこは外の方達が評価することだと思います。
私達はここに生まれているので、
自分達が他の町に比べて
開かれているのかどうかはよくわからないんです。
でも、震災を通じて、
皆さんがそうおっしゃってくれているので、
多分そうなんだろうなと思っています。
たしかに気仙沼は遠洋漁業の基地ですので、
遠いアフリカの港や南米の港に船を置いて、
乗組員が飛行機で行ったり来たりするというのが
日常茶飯事だったんですね。普通のことだったんです。
そういう意味では、気仙沼の人は、小さいまちとしては
パスポートを持っている比率が高いと思いますし、
どんどん魚を求めて遠くまで船で出かけていく、
新しいものに挑戦する、外国の方々と
お付き合いをしていくという気質もあるかもしれません。
- ――
- 海を玄関として、どんどん外に出ていき、
また、受け入れてこられた文化。
- 菅原
- そうですね。それから、
さきほど三大漁場と言っていただきましたけど、
国内でも、カツオなんかは今頃の季節だと
小笠原あたりで獲れるんですね。
そのカツオがどんどん北に上ってきて、
気仙沼の沖である三陸沖まで上ってくるわけです。
それを獲っている人達というのは、
宮崎だったり高知だったり三重だったり静岡だったり、
いろんなところの漁師さんなんです。
その方達が気仙沼で何ヶ月間も水揚げを続けていて、
この町になじんでいただいているということを見れば、
外から来た人を受け入れるということも、
我々にとっては風土の一つになっているのかなと思います。
- ――
- 昔からずっとそういう場所だったんですね。
- 菅原
- そういった風土が元になっているのか、
縁はどんどんつながって、
様々な支援をいただいているわけですが、
私が全体から感じているのは、
気仙沼は本物の方達から
お付き合いをしてもらっている、ということなんです。
その関係を守り続けるために、
我々に課された条件は一つだと思うんですね。
「自分達が本物にならんとする。」
本物になる努力をみんなでしていけば、
本物の方達が来てくれる。
そういう関係なんじゃないかなと思っています。
- ――
- この場合の本物というのは、
立場とか名誉などではなくて、
信念とか心のあり方も含めてのことなわけですよね。
お話を伺いながら、糸井が
震災直後に気仙沼を訪れたときに、
何かできることをしなきゃという気持ちで行ったのに、
逆に、気仙沼の方々が、
せっかく来てくれたんだから
美味しい魚を食べさせてあげたいんだと言って、
心からのおもてなしをしてくれたと。
そんなふうに言っていたことを思い出しました。
- 菅原
- 糸井さん、おっしゃってましたね。
覚えていますよ。
本当にね、思い返すと、
皆さんからいろんな支援を受けて、
この11年、おかげさまで
道路だとか橋だとか、街並みといったハードは
変貌を遂げたと思っています。
物理的な課題としては、50年から100年分が
一挙に解決したんです。
一方でそれにも関わらず人口が減っている。
この、せっかく変貌を遂げた町に、
どう賑わいを確保していくかというのが、
今の最大の課題だと思います。
- ――
- 賑わいを確保する。
- 菅原
- ええ、気仙沼でも、
多くの若者はいったん外に出るわけですが、
帰って来る人が少ないんです。
特に女性が少ないです。
せっかくいろんな知識や技能を身につけた人々が
働くにふさわしい仕事を
気仙沼に作っていくということ、これが課題です。
人口はいずれ減少していくし、
それは認めながらも、やはり町に活気、
賑わいを維持していくためには、
今は特に女性の働く場というものに力を入れたい。
これが、その復興が10年、11年を迎えた中で、
数値的にも感じるところですね。
今この世の中のデジタル化というのは
追い風だと思います。
- ――
- コロナ禍で、リモートやテレワークといった
働き方が徐々に浸透してきてますよね。
- 菅原
- そうですね。二ヶ所居住だとか、
ふるさとワーキングホリデーとか、
いろんな言葉が出ていますけど、
現在そういう政策によって、
都心部から人が少しずつ周辺部に移っているんですが、
気仙沼の場合は距離的にさらにもう一声かけないと
来れないと思いますので、
日本の人々が生き方を変えていく中で、
気仙沼がその受け皿というか、
目的地の一つになるような場所にしたいと思っています。
気仙沼出身の人も、そうでない人も、
ここで働きたいと思えるような、
帰って来られる町にするのが最大の課題かなと思ってます。
そういう意味では、
情報交換やディスカッションができるお友達は
作れたと思うんですね、気仙沼の人達は。
市民みんながそういうことに反応して、
人を受け入れる町を作っていかなくてはと思います。
- ――
- 市長ご自身も一度東京の方でお仕事なさって、
その後、気仙沼に戻られたわけですよね。
- 菅原
- はい。私は18歳で高校を卒業して
東京に出ましたので、
戻って来たのは16年後ですね。
- ――
- そのときは既に、やはり気仙沼で
今のようなお仕事をなさりたいと
思っていたのでしょうか。
- 菅原
- まあ家の事情があって戻って来たので、
そのときには政治に関わりたいとか、
市長になりたいとかは思ってはいなかったです。
気仙沼でその後の人生を暮らす中で、
この町をよくしたいという思いが
いろいろな活動をしてる中でつのってきた、
というのが、実際のところなんです。
- ――
- 就任後に震災に遭われて、大変な状況のなかを
リーダーシップをとりながら対処されてこられて。
市長はビジョンが明確に見えていて、
いろんな困難に対しても
正面から向き合っているように感じますが、
いつもどのように心を保たれているんでしょうか。
- 菅原
- うーん‥‥何て言うんでしょう、
これも市長だからってことではないのですが、
逃げるといいことないなと
思っているからだと思います。
- ――
- 「逃げるといいことがない」
- 菅原
- まっすぐに向き合う以外に
結果を出すことはできないし、
物事から逃げて、良い結果が生まれることはない。
それは確信していますね。
結果はどうなるかわからなくても、逃げてはいけない。
逃げる、避ける、というのは、
一番大事な信頼を失う可能性が高い行為だと思うんです。
何らかのうまくいかないことがあったとしても、
信頼があれば、次の機会が生まれますから。
(つづきます)
2022-03-12-SAT