映画『夢二』の中で、個人的にとても印象に残っている女優さんのひとり、鞠谷友子さんの見開きページ。この映画は宝塚歌劇団出トップをつとめた鞠谷さんにとっても映画初出演とのことで、その思いも特別なものだったのかもしれません。偶然にも、あるファッション誌で、鞠谷さんとは別の撮影をご一緒していたこともあって、そして鞠谷さんもちょっと気分転換をしたかったようで、「ちょっと待ってて、着替えてくる!」と言って、このなんとも妖艶な白装束に着替えての撮影となりました。もちろん、ここでも荒木さんはしっかりと割り込んできました。笑

ぼくが「荒木経惟さんに教わったこと」として、
その1「ノーファインダーで撮れ。」
その2「傾いているんだったら、傾いたまんま撮れ。」
とお話してきましたが、
今回は、その最後の3つめです。

ぼくが荒木さんに
「これだけ長い間写真をやってきて、
 うまくいかなくなったり、
 悩んだり、しないんですか?」
と訊いたときのことです。
「ぼくはときどき、そういう時があるんです」と。
横にいた高橋恭司さんも、
「そうなんですよね、煮詰まるんですよね‥‥」と。
すると荒木さんはこう言いました。

「お前ら、バカだなぁ!
 写真なんていうのはだな、
 お前らが撮ってるんじゃねぇんだよ?
 カメラが撮ってるんだよ!
 だから、うまく撮れねぇなと思ったり、
 煮詰まったら、カメラ変えろ!
 そうしたら、自動的に写真が変わるから!」

これは、ぼくが今でも守っている鉄則のひとつです。
「あぁ、最近うまく撮れないなぁ」と、
ちょっとでも思ったら、まずカメラを変える。
そうしたら、変わるんです、写真が。
カメラで変わるんです。
うまくなったのか、そうでないのかは別にして、
あたり前のように、とにかく変わります。

撮影後、1996年にヴェネツィア映画祭特別招待作品となり、それを記念して、渋谷「ユーロスペース」にて単館上映された際のチラシ。その当時、個人的にはこれで終わりにしたくなかったこともあって、少し複雑な思いを持ってこのチラシを見ていましたが、今となってはそれも、いい思い出と言えるのかもしれません。ちなみにこのチラシに写っているのは主役の大内マリさんです。

この「なんとなくうまく撮れなくなったらカメラを変える」
は、ぼく自身、今でも、
ことあるごとに繰り返していますが、
そのような話の中で、大きな出来事のひとつを紹介します。

映画『夢二』での撮影の2年後、ぼくは、偶然にも、
ある映画の撮影監督をつとめることになりました。
その映画は『夢二』とはちがって、
限りなく自主制作に近いものでしたので、
全体的なテーマのようなものは存在していましたが、
脚本も未完成のまま、たとえばそのロケ地の選定も含めて
様々なことを決めなくてはいけません。
そのすべてを監督である
中川陽介氏と二人で決めていきました。

ロケ地のイメージも、だんだんとかたまり、
その世界観に合う場所を、最初は
東京近郊で探していたのですが、
いざ映画の撮影となると許可がおりなかったりします。
どうしようかと悩んでいた時に、
「もしかしたら、菅原が考えている感じのところが、
 那覇にあるかも!」と、監督。
その一言を頼りに、ぼくたちは沖縄に向かいました。
その時に持って行ったカメラが、
「KONICA HEXAR」でした。

当時としては、ちょっとめずらしかった高性能単焦点レンズ付オートフォーカスカメラ。しかも、このまるでフルオートライカのようないでたちのカメラに付いている「ヘキサノン35mmF2」というレンズが、なかなか侮れません。そのしっとりとした、特にシャドウ部での描写は、ライカのレンズを凌駕するほどに、しっかりと写ります。そして、少し心配になるほどのとても静かなシャッター音なのですが、そのAFの精度もとても高く、ぼくにとっては、今でもいざとなると登場する大切なカメラのひとつです。

実は、このカメラの購入のきっかけも荒木さんでした。
映画『夢二』のレセプションだったか、
あるいは荒木さんの個展のレセプションだったかの席で、
荒木さんからコニカの方を紹介され、
気が付いた時には、「HEXAR」が
ぼくの事務所にありました。

当時のぼくは、プライベートの写真のほとんどを
モノクロフイルムで撮影していました。
とはいうものの、ぼくのギャラリーでの初個展はカラー写真でしたし、
嫌っていたわけではないのですが、
なかなか、「これだ!」と思う色を
再現してくれるカメラと、
カラーフイルムに出会えていなかったのかもしれません。

けれどもその時は、せっかくだからと、
「HEXAR」とカラーフイルムを沖縄に持っていきました。
那覇の街をとても気に入ったぼくは、
映画の世界観を紡ぐように、
夢中でシャッターを切り続けました。
東京に戻って、ぼくはおよそ百数十枚の
カラープリントを作り、
それが、のちにタイトルが『青い魚』となる映画の
色の世界を構築する重要な要素となりました。
それまで、あれだけ迷いに迷っていたカラー写真に、
この「HEXAR」というカメラが、
大きな突破口を作ってくれたのでした。
もちろん、当時使用していた
コダックの「ベリカラー」というカラーフイルムの力もありますが、
そうして新しいカメラ「HEXAR」のよって写し出された写真には、
今までのぼくのカラー写真の中にはなかった、
とても新鮮で瑞々しい世界が写っていました。
そのことが、すごくうれしかったし、
すくなくてもその時のぼくは、
“カメラを変えてみた”
ただそれだけで、新しい扉が開いたかのような気がしました。

もちろんカメラそのものは
何台も何台も持つ必要はありません。
でも、2台(あるいはそれ以上)あるといい。
その2台を、行ったり来たりすればいいと思っています。
それはちょっと極端な話になりますが、
「iPhone」と「写ルンです」の
行ったり来たりでもいいんですよ。

一番大切なのは、カメラが変わることで、
“変わらないもの”を見つけることが出来たり、
“変わるもの”を見つけることが出来たりすることです。

カメラが変わっても、なんとなく同じように写る場合は、
視点そのものがはっきりとしているということ。
そして、明らかな変化が見られ、
しかも、それがいい結果を生み出してくれるなら、
それだけで十分な成果です。
あらためて新鮮な気分になるでしょうし、
そこから、新たなものが見つかることもあるでしょう。

映画撮影後に出版された写真集『青い魚』
当初は、この写真集も、映画の写真集であることをかくし、音楽を担当してくれた、当時まだ学生だった渋谷慶一郎氏のサントラ盤も、映画公開前に発売するという異例のリリースでした。

それにしても、あの時のぼくは、
大先輩である荒木さんに対して、
丁寧に答えてくださるのをいいことに、
かなり失礼な質問ばかりしてしまったものです。
言い訳のように聞こえてしまうかもしれませんが、
あの時のぼくは、パリから戻ってきて、
ファッションカメラマンとして、
一所懸命がんばってはいました。
「どうせやるのだったら」と、
ある意味「なりきって」やっていたのですが、
その合間に、ファッション写真ではない、
きわめて個人的な、写真も撮っていました。
いま思うと、自身を見失っていたのでしょう。
そんな未分化な状態で、仕事とはいえ、幸運にも、
尊敬する荒木さんにお会いすることが出来ました。
思い返してみても、後にも先にも
このようなことはありません。

これで「荒木経惟さんから教わったこと」はおしまいですが、
次回は、今回の続きの話として、
そんな映画『青い魚』の中で試行錯誤した
「色」についてのお話したいと思っています。

2014-10-10-FRI