この街で一番のホテルの一番の部屋。
泊まってみたくはあったけれど、
ボクには過ぎた贅沢だからと辞退する。
いやいや、あまり使われる機会に恵まれぬ部屋なので、
たまに使ってやらなくてはいけないんです。
代金は旅行代理店から‥‥、
あなたが経営しているあなた専用の旅行代理店ではなく
本当の代理店からいただいた分で十分ですから。
ただ、チップの分は含まれていないということだけを
了承してもらえればそれで結構。
明日、チェックアウトの前に
こうしてお話をさせてもらうことができれば、
なおさら結構。
さぁ、どうでしょう‥‥?

今度はボクが右手を出して、
彼に握手を求めることとあいなった。

ひさしく使ってない部屋なので、
準備にしばらく時間をいただきたい‥‥、
と支配人はいいつつ立ち上がり、
ボクは一人でそのラウンジに取り残される。
どのくらい待ちましたか。
その間、ずっとボクはどんな部屋なんだろう。
窓の外にはどんな景色があるんだろう‥‥、
と考えていた。
そうだ。
チップ用の1ドル紙幣があるだろうかって、
ズボンのポケットに手を突っ込もうと
腰を浮かせたそのタイミングにて、
耳元で、静かにバリトンの声がする。

ミスターサカキ、お部屋の準備ができました。

ベルボーイの大きな背中が
ユッタリ左右に揺れるのを目で追うようにして、
ロビーを突っ切り、エレベーターの前に立つ。
これがミスターサカキのお部屋の鍵です、
と恭しく一本の鍵を示しつつ、
エレベーターの扉をあける。
扉の横に縦に並んだ数字の行列。
その一番上に「P」とかかれたプレートがあり、
横に小さく鍵穴、ひとつ。
そこに彼はその鍵をいれ、クイッと右に手首をひねる。
プーンと軽い音がして、
扉は閉じてゆっくり上にあがっていきます。

このキーを回せば他のフロアーをスキップして、
ダイレクトにペントハウスまでまいります。

なるほど、フルプライバシーということですな。
ブーンと低く唸るような音にあわせて、
縦に並んだ数字が次々、明るくなっては消えてゆく。
光のリレー。
最後の数字が消えてPの文字が明るく輝く瞬間。

「ようこそ、ペントハウススイートへ。」

ハリのある、けれど低く静かな声が厳かに告げ、
それに続いてプーンと再び軽い音。
扉が開く。





大男でも一抱えにできないほどの本数の、
生花が無造作に放り込まれた大きな花瓶。
たっぷりとしたソファセット。
一瞬、別のホテルのロビーに
やってきたのかと、思うほどに大きく立派で、
けれどそれはボクがこれからステイする
ペントハウスのリビングルーム。
奥ではパチパチ、暖炉で薪がはぜる音がかすかに響く。

「お部屋のご案内をさせていただきましょうか」
と、年の頃は50歳も後半でしょうか。
後ろ側だけ裾の長い黒いジャケツに、黒いネクタイ。
弱った肌ならばスパッと切れてしまいそうなほど、
キチッと糊のかかった白いシャツをきた長身の紳士が、
ニコリと言います。
リッコと名乗る彼は、この部屋の執事で、
ミスターサカキのお世話をさせていただきますと、
そう言い添えてボクが一晩、泊まるであろう
部屋の隅々を、ボクに説明してみせるのです。
ひときわ大きなマスターベッドルームの他に
2つのベッドルーム。
それぞれのベッドルームには
シャワーブース付きのバスルーム。
マスターベッドルームのベッドには天蓋がつき、
縦にも横にも、当然、斜めにも眠れるほどに
広くてしかも背が高い。
当時、ボクが住んでいた
アパートメントのベッドルームほどもありそうな
クロゼット。
そのクロゼットの片隅に、
ボクのスーツケースが運ばれている。
小さなキッチン。
ダイニングルームに小さな書斎と、
つまりちょっとした一戸建てほどもある部屋で、
あまりの見事にボクはただただ呆然とした。
この場所でどのように振る舞えばいいのか、
まるでわからず、ただ呆然と。

「ご自宅でおくつろぎになるようにお過ごしください」
‥‥、というようなコトをリッコは言う。
気づけばボクをこの部屋まで連れてきた、
ベルボーイの姿はまるで蒸発してしまったように
消えていて、ボクはリッコとふたりきり。
ますますボクは緊張し、思わず一言、こう言いました。

「紅茶を一杯、もらえませんか?」






リッコは聞きます。
「どのような、紅茶をご所望でらっしゃいましょう」。
「アールグレイを」と答えます。
しかしその答えにも彼は満足せぬようで、
じっとそこに微笑みながら立っている。
ボクは頭をしぼります。
「ポットにタップリ」。
彼はコクリと頷きます。
けれどそれでも彼はそこにじっといて、
ボクを見る目がもっと何かヒントを下さい‥‥、
と、そう言ってるようでボクは続ける。
「熱々のお湯で濃い目に出して、
 同じく熱く温めたミルクと一緒にいただけますか?」
「ミルクは何かご指定がございますか?」
と、間髪入れず。
「乳脂肪をタップリ含んだ普通のミルクで結構だから」。
そこで彼ははじめて大きく頷いて、
「もし、お湯をわかすための
 ミネラルウォーターの銘柄のご指定がございましたら、
 伺います。英国の硬い水を使えと言われますと、
 いささか時間を頂戴することになりますが」
と、いたずらっぽくウィンクしながら、ボクの顔を見る。
「いや、この街のお水でいれた
 アールグレイを飲みたいんだ」
ボクの答えにリッコは大いに満足したようで、
準備のためにお辞儀をしながら部屋を出る。

なるほど、ボクの満足のために働いてくれる
リッコのために、仕事を作ってあげるのが、
このスイートでひとときを過ごすボクの役割り。
そう思ったらワクワクすると同時にしたたか緊張もする。
ソファに座ってテレビをつけて、
テーブルの上に置かれた地元の雑誌や旅行雑誌を
パラパラ、めくりつつ待ってるうちに
彼は銀のトレーにポットとピッチャー、
砂糖のポットとティーストレーナー。
大ぶりのカップをのせて戻って来ます。

「ミルクを先に、紅茶を後から
 ちょうど半分ずつになるように注いでください」

左手を軽く握って腰の後ろにそっとあて、
ミルクの入ったピッチャーを
ユックリ手にして持ち上げながら、彼は「Yes」と。
それに続いて「Sir」と静かに、やさしく添えた。
ボクはただのゲストから
「サー」と呼ばれるゲストになった。
なんだかそれでホッとして、
紅茶でお腹が温まったこともあったのでしょう、
体が崩れる。
フッカリとしたソファに体が沈み込み、
眠りの中に落ちていく。

頭の中が真っ暗になるその直前。
「パンツやジャケツに
 アイロンをおかけいたしましょうか?」
とリッコの声が遠くからする。
パンツもジャケツも着たままなのに、
どうしてアイロンをかけられるのだろう‥‥、
と不思議に思えど頭はほとんど働かず、
「Yes, please」と小さく口にするのがせいぜい。
ボクは1時間ほどの仮眠の人とあいなった。




2011-01-20-THU
 
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN