メンズショップ イシカワ 店主・石川顕インタビュー
店主 石川顕インタビュー 
パンクな何でも屋が
モノづくりに至る道は。
4月29日より開催される「生活のたのしみ展2023」で
デビューする「メンズショップ イシカワ」。

その店主、兼バイヤー、兼プロデューサー、
一人三役を務めるスタイリストの石川顕さんについて、
このコンテンツでは、これまで、モデルのKIKIさん
編集者の岡本仁さん
インテリアデザイナーの片山正通さん
「石川顕さんってどんな人?」という
インタビューをしてきました。

けれども、なぜか、聞けば聞くほど、
謎が深まったような‥‥。
そこでふだん滅多に語りたがらない
石川さんご本人に取材をしました。
石川さんって、いったいナニモノなんですか?!
話は旭川での少年時代から、
東京遊学(?)時代のこと、
いつのまにかスタイリストになっていった頃のこと、
そして「モノづくり」について、
3回にわけて、おとどけします。
その2
スタイリスト? 何ですかそれ?
──
旭川には、いつまでいらしたんですか?
石川
18歳です。
──
受験で上京を?
石川
いや、何にもない。プータローで東京に来たの。
──
えっ?(笑)。
石川
それはなんとなく子供のときから決めていて。
ぼく北海道の公務員の息子で、ひとりっ子で、
近所の人はぼくが公務員になると思っていたんだけれど、
親父とお袋は「いいんじゃない、東京行くんでしょ?」
みたいな感じだったんです。
──
何のよすがもなく? 
就職したわけでもなく、
学校に入ったわけでもなく?
石川
仕送りをもらってるフーテンでした。
写真
──
東京のお坊ちゃん的にいうと、遊学ですね。
石川
そう。規模が違うけど、
パリに行く人いるじゃないですか。
学校に行くわけでもなく。
ああいうことです。
──
理解のあるご両親なんですね。
石川
刑務所の看守で、
仕事では非常に厳しいんでしょうけれど、
ぼくには非常に甘かったんです。
──
東京に出てきてからのことを聞かせてください。
どの街に住んだんですか。
石川
代官山に住んでました。
親戚が住んでいた部屋に、
そのまま居抜きで入ったんです。
4畳半の風呂なしアパートでした。
──
1978年の代官山。
いまと違い、お店があまりなく、
地方にいたらまったく情報が入ってこない
街だったのではないですか。
石川
そうでした。
ハリウッド・ランチ・マーケットと
ヒルサイドテラスがかろううじてありました。
で、近所に、今でもある
「パーフェクトルーム」っていうワンルームマンションに
『POPEYE』で働いてる人がいたんです。
その人と友達になって。
──
どうやって友達に?
石川
「パーフェクトルーム」が
コミュニティのようなところだったんです。
そこに出入りしていたんですよ。
その友達の家に毎日シャワーを借りに行くようになり、
たまたまその人が『POPEYE』で
フリスビーの記事とかを書いてるライターだったんです。
さらにその友達に有名カメラマンのアシスタントがいて、
そんな縁があって「平凡出版」(のちのマガジンハウス)に
行くことになるんです。
友達はカメラアシスタントで、
ぼくはさらにそのアシスタントなんですけど、
ぼくはカメラマンになりたいわけでもなかったから、
ただついていって、片付けを手伝ったり。
──
その頃、19とか20歳だと思いますが、
何になろうか、考えがあったんですか?
石川
何になろうかは考えていなかったけれど、
1つ絶対に言えることは、
編集者になりたいとか、
スタイリストになりたいとは、一切思わなかった。
「なれば?」って言われても
「やめてください、そういうの」っていう感じでした。
現場に行っても、
マガジンハウスからお金が出るわけじゃなかったけれど、
おいしいご飯が出たんです。
毎日そうやってメシを食ってたら、
編集部のおじさんが知り合いになるじゃないですか。
その編集者に、最初に言った寺﨑央さんや、
小黒一三さんがいたわけです。
でもぼくは『Made in U.S.A Catalog』の人だとは
まったく気づかなくって、怖いもの知らずだから、
「おじさん偉いの?」みたいな。
「カッコいいね、おじさん!」って。
今考えたら寒気がするんですよ、
旭川で憧れていた
『Made in U.S.A Catalog』と、
『POPEYE』を創った人に会ったんだと。
でも、ぼくに屈託がなかったんでしょうね、
みんな、かわいがってくれたんです。
写真
──
さぞや面白かったでしょう!
石川
毎日飲みに連れて行かれて。
「お前、今暇だったら来れば」って。
ぼくは酒がまったく飲めないから、
ずっとおじさんたちとダベってた。
──
ちなみにそのときのファッションは?
石川
リーバイス501と白いラコステでした。
普通に『POPEYE』でした。
──
そこからどういう道をたどってスタイリストに?
石川
遊んでるうち、いろんな編集者に、
「やることないんだったらば、
スタイリストっていうのがあるから、やれば?」
って言われたんです。
ぼくは「スタイリスト、何ですかそれ?」
っていう感じだったんだけれど、
1回手伝ってみたら、ものすごく大変で、
「もうほんと勘弁してくださいよ! 
ぼくは毎日ここでタダメシが食えりゃいいんです、
おじさんと遊んでればいいんです」って。
──
そんな(笑)。
石川
そしたら「分かった」って。
その頃は、寝る場所があって、
お風呂を借りられる友達がいて、
タダでメシが食えるとこがあって、
金を使わないで、毎日朝まで遊んで
暮らしていければよかったの。
ず~っとそうしていたかったんです。
要するに、志が低い。
「低い」っていうか「ない」。
みんなびっくりしてるけど、
その頃はそんな人ばっかりでしたよ。
──
そうなんですか‥‥。
石川
でも結局、スタイリストの小間使いみたいなことで、
「あれ買ってきて」とか、「あれ揃えて」とか、
そのくらいだったらいいか、と手伝うようになったら、
日取りでギャランティを貰うようになって。
そしたら武智京太郎さんという有名な編集者が、
「お前、面白いから、スタイリストなんかやめて
ライターになれ」と。
それで「はい、そうっすね」と打ち合わせをしたら、
こりゃ、スタイリストより大変だなとわかって。
編集者やライターの仕事って最初から最後まででしょう、
でもスタイリストって真ん中だけなんだ。
だからライターはすぐに辞めて、
結局スタイリストの手伝いに戻ったんです。
稼げなくても楽しく暮らせるほうがいいやって。
──
そんな石川顕青年が、名前が知られるような、
わりと大きい看板仕事をするようになるには、
何か転換点があったんですか?
石川
1982年の『BRUTUS』のファッション特集です。
そこがぼくのスタイリストのルーツです。
というのもね、ファッションは服じゃないですか。
だからファッションクルーは、
服を大量に集めてくるわけだよね。
その号はイギリスがテーマで、
ファッションは揃っていたんだけれど、
「イギリスの化粧品って何?」と。
それで「グルーミング用品集めてくれる人いる?」
って、僕に指名がきたんです。
──
おぉ!
石川
あと、ちょっとしたインテリアって
あるじゃないですか。
髭をそるシーンには鏡が必要、みたいなね。
だから、それも用意した。
つまりぼくのスタートは、
ファッションクルーの後始末的な小道具屋さんでした。
そういうことをやっていたから、
ぼくは「インテリアのスタイリスト」って
言われるようになりました。
津田晴美さんっていうインテリアスタイリストの人と
個人的に仲が良くて、ずっと遊んでたものだから、
「あの人は津田さんとこの人」って思われて、
別に否定もせずにいたんです。
実際、毎回撮影に呼ばれて、
「イシカワ! ちょっと私の隣にいなさい」と。
それで、「右だと思う? 左だと思う?」って訊くから、
「右じゃないですかね」って、
無責任に答える役目だったんですよ。
写真
──
無責任に答えてるつもりが、
確信を持ってセンスよく答えてるように聞こえてた?
石川
そうなのかな。毎回隣にいて、訊かれるの。
で、話を戻すと、『BRUTUS』のファッション特集の
グルーミングやインテリアをやったときに、
はじめて名前が載ったんです。
「スタイリスト 石川顕」って。
──
そっからしばらく、インテリアや小道具、
大道具の人だったんですか。
石川
うん。何でもやったんですよ。
たとえば「大人のおもちゃを集めて来い」とか、
「カッコいいコンピューターが欲しい」とか、
「オープンリールのカッコいいテープレコーダーを
ファッションの撮影で使いたい」とか。
インターネットのない時代だから電話をして探すんです。
──
今の子だったら、あの子はオタクで、
ものすごいインプットが多いからっていう理由で
起用されるんだと思いますが、
当時の石川青年はどうだったんですか?
石川
全然何もないんですよ。知識もなにも。
だから人づてに調べていく。
「プレスルーム」って言葉がなかった時代ですから、
オーディオメーカーの人に
「オープンリールを貸してください」とお願いすると、
「あの、掲載料をいくらお支払いすれば?」
と聞かれちゃうんです。
「違いますよ、もし払うとするならこちらですし、
でもこれはフィフティフィフティでお借りするんです」
そんな時代でした。
そんな中で、ぼくが一番得意だったのが、
スポーツウェアだったんです。
──
ウェア、来ました!! やっと服に(笑)。
石川
でもね、当時のスポーツウェアはあくまでも
「スポーツ用品」だったんです。
だからファッションページで
スキーのカットを撮りたいときに、
そのスキーは誰が集めるの? とか、
エクイップメントはどうすんの? 
リュックは? ヘルメットは? ゴーグルは? 
‥‥これぼく、一番得意なんです。
それはもう、趣味だから。
──
そこは詳しかったんですね。
石川
大好きで、異常なほどに知ってました。
そこで旭川育ちが生きるんですよ。
今でもテニスとスキーのことは詳しいですよ。
──
『POPEYE』が当時、
夏はテニス、冬はスキーでしたね。
石川
そう。宮本恵造さんっていう、
『POPEYE』でデカラケを流行らせた人が友達で、
恵造さんから話を仕入れ、物を借りてました。
恵造さんは山本康一郎とぼくの先輩です。
──
康一郎さんも、マガジンハウスの編集者は
とんでもなく知識の深い人がいてかなわないから、
「詳しい人について詳しい人になろう」
としたんだそうです。
石川
すごく分かる。
康一郎は『POPEYE』で
ぼくは『BRUTUS』、ちょっと境遇が似てるの。
ただ出発点があいつは慶應ボーイで、
ぼくはただのプータロー、その差なんですけどね。
でもすごく似てて、何屋だかよく分からない。
「なりたい」もないし、
「なれない」もあったし、勉強もしてない。
今でもなりたいかどうか微妙ですよ、スタイリスト。
写真
一同
(笑)そんな中で「スポーツまわりが得意な石川さん」が
代名詞みたいになったんですね。
石川
インテリアから、
そっちのほうに、なんとなく。
すると20代の半ばぐらいで
『Tarzan』が創刊するんです。
──
そうか! スポーツ雑誌! 
当然、そこに呼ばれますよね。
石川
それが、呼ばれないんですよ。
──
呼ばれない?
石川
(笑)最初は。
2023-04-15-SAT
(つづきます)