5真犯人を逃すことが怖い。


糸井 あの映画には、いろんなことが
ポン、ポン、と含まれています。
けれども、周防さんが、
映画の、たしか頭とお尻に、
「これ」ということを出していますよね?
悩んだことの数は、
あの1000倍ぐらいあるんだろうけど、
周防さんはああやったんだな、って思いました。
つまり、
「テーマといえばとりあえず、
 これで見てください」
と、周防さんがしたってところ。
周防 ええ。
糸井 あそこに、僕はおもしろさを感じるんです。
あのテーマを知りながらも
ほかのことがガラガラ、ガラガラ
動いてくるでしょう。
でも、周防さんは、あれを示した。
周防 あれはね、究極だと思うんです。
たったひとつ、
もしやっちゃいけないことがあるとしたら、
それは罪を犯してない人に
罰を与えてはいけないんだということ。
誰もほんとうのことなんかわかんないんだから、
少なくとも、それだけはいけない。
もうその中に真犯人いてもしょうがないよ、
真犯人を逃すことよりも、
犯罪を犯してない人に罪を犯したと
言っちゃいけないんだよと、
最低限の約束をあそこで表したかったんです。
糸井 あれに絞ったんですよね。
周防 ええ。
人類は、長い歴史の中で、ようやく
そこに行き着いてるはずなんです。
そこまで行ったのは、
つい最近の出来事なんですよ。
それまではバンバン、
冤罪だらけだったわけですよね?
「具体的な証拠」なんて求められることもなく、
占いで決まる時代もあったわけです。
ここから飛び込んで死なないで帰ってきたら
そいつは犯罪者じゃないとか、
魔女裁判では少なくとも2人の人が
魔女であると証言しなきゃ魔女とは認めないとか、
そんな時代を経てようやく
証拠というものが必要で、
訴追側が合理的な疑いを入れない程度の
有罪立証をしなければならない、
という段階にまで来たんです。
そうやって、人を有罪だと認定する
条件を作ってきて、
ようやく「疑わしきは被告人の利益に」の
ところまで来ました。
人を裁く歴史は、そういう歴史だったんです。

糸井 ひとつのところに
絞るまでの長さが延々とあった。
で、それは学校で
僕たちは習ったはず、ですよね?
周防 はずですね。
みんなが知ってて、言ってるんだけど、
そうじゃないという状態。
糸井 もっといえば、
法に照らし合わせないモラルのレベルでは、
疑わしきは全部罰するという使われ方を
してますよ。
周防 してますね。
糸井 テレビなんか見てたら‥‥
周防 すごいです。
糸井 「罰し」だらけですよね。
それはかつて、
この女に石を投げられる者がいたら投げなさい、
というところで、到達してるはずなのに。
「そんなこと言ったって悪いじゃん!」
という、裁きたがる熱情の歴史がありました。
周防 はい。そのほうが長かったんです、圧倒的に。
そして、今もそれはある。
糸井 今もそうですね。
そうじゃなかった時代って
少ないですね。
周防 裁判官もね、やっぱり
真犯人を逃すことが怖いんです。
それは別に
裁判官の個人の考え方ではなくて、
おそらく、世の中の反映なんです。
糸井 ああ、そうですね、反映でしょうね。
周防 多くの人がそう思ってるから、
そういうことを裁判官も感じてるはずなんです。
真犯人を処罰しないで
逃がしてしまうことの恐れのほうが、
間違って人を裁いてしまう恐れより
強いんですよ。
笑っちゃうけど、信じられないけど。
糸井 犯人を逃がすことによって
価値体系のほころびが出ちゃったら、
今日あしたの日常が壊れちゃうという
恐怖があるんでしょうね。

周防 おそらく社会秩序が崩れることを
恐れると思うんです。
簡単に言っちゃうと、
凶悪事件の犯人として裁かれた人に、
無罪判決を下すということは、つまり
「この連続殺人を犯した真犯人は
 まだこの世の中にいるんだ」
と宣言することです。
それは、なかなかできるものじゃないですよ。

(つづきます)


2007-02-18-SUN


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