糸井 | あの映画には、いろんなことが ポン、ポン、と含まれています。 けれども、周防さんが、 映画の、たしか頭とお尻に、 「これ」ということを出していますよね? 悩んだことの数は、 あの1000倍ぐらいあるんだろうけど、 周防さんはああやったんだな、って思いました。 つまり、 「テーマといえばとりあえず、 これで見てください」 と、周防さんがしたってところ。 |
周防 | ええ。 |
糸井 | あそこに、僕はおもしろさを感じるんです。 あのテーマを知りながらも ほかのことがガラガラ、ガラガラ 動いてくるでしょう。 でも、周防さんは、あれを示した。 |
周防 | あれはね、究極だと思うんです。 たったひとつ、 もしやっちゃいけないことがあるとしたら、 それは罪を犯してない人に 罰を与えてはいけないんだということ。 誰もほんとうのことなんかわかんないんだから、 少なくとも、それだけはいけない。 もうその中に真犯人いてもしょうがないよ、 真犯人を逃すことよりも、 犯罪を犯してない人に罪を犯したと 言っちゃいけないんだよと、 最低限の約束をあそこで表したかったんです。 |
糸井 | あれに絞ったんですよね。 |
周防 | ええ。 人類は、長い歴史の中で、ようやく そこに行き着いてるはずなんです。 そこまで行ったのは、 つい最近の出来事なんですよ。 それまではバンバン、 冤罪だらけだったわけですよね? 「具体的な証拠」なんて求められることもなく、 占いで決まる時代もあったわけです。 ここから飛び込んで死なないで帰ってきたら そいつは犯罪者じゃないとか、 魔女裁判では少なくとも2人の人が 魔女であると証言しなきゃ魔女とは認めないとか、 そんな時代を経てようやく 証拠というものが必要で、 訴追側が合理的な疑いを入れない程度の 有罪立証をしなければならない、 という段階にまで来たんです。 そうやって、人を有罪だと認定する 条件を作ってきて、 ようやく「疑わしきは被告人の利益に」の ところまで来ました。 人を裁く歴史は、そういう歴史だったんです。 |
糸井 | ひとつのところに 絞るまでの長さが延々とあった。 で、それは学校で 僕たちは習ったはず、ですよね? |
周防 | はずですね。 みんなが知ってて、言ってるんだけど、 そうじゃないという状態。 |
糸井 | もっといえば、 法に照らし合わせないモラルのレベルでは、 疑わしきは全部罰するという使われ方を してますよ。 |
周防 | してますね。 |
糸井 | テレビなんか見てたら‥‥ |
周防 | すごいです。 |
糸井 | 「罰し」だらけですよね。 それはかつて、 この女に石を投げられる者がいたら投げなさい、 というところで、到達してるはずなのに。 「そんなこと言ったって悪いじゃん!」 という、裁きたがる熱情の歴史がありました。 |
周防 | はい。そのほうが長かったんです、圧倒的に。 そして、今もそれはある。 |
糸井 | 今もそうですね。 そうじゃなかった時代って 少ないですね。 |
周防 | 裁判官もね、やっぱり 真犯人を逃すことが怖いんです。 それは別に 裁判官の個人の考え方ではなくて、 おそらく、世の中の反映なんです。 |
糸井 | ああ、そうですね、反映でしょうね。 |
周防 | 多くの人がそう思ってるから、 そういうことを裁判官も感じてるはずなんです。 真犯人を処罰しないで 逃がしてしまうことの恐れのほうが、 間違って人を裁いてしまう恐れより 強いんですよ。 笑っちゃうけど、信じられないけど。 |
糸井 | 犯人を逃がすことによって 価値体系のほころびが出ちゃったら、 今日あしたの日常が壊れちゃうという 恐怖があるんでしょうね。 |
周防 | おそらく社会秩序が崩れることを 恐れると思うんです。 簡単に言っちゃうと、 凶悪事件の犯人として裁かれた人に、 無罪判決を下すということは、つまり 「この連続殺人を犯した真犯人は まだこの世の中にいるんだ」 と宣言することです。 それは、なかなかできるものじゃないですよ。 (つづきます) |
2007-02-18-SUN |